柳沢吉保の側室染子のお墓(江戸のヒロインの墓㉔)
江戸のヒロインのお墓、今日は柳沢吉保の側室染子(以下柳沢染子と言います)のお墓をご紹介します。
柳沢染子は、柳沢吉保の側室ですが、江戸検のお題テキスト「江戸のヒロイン」には載っていない女性ですので、あまり知られていないかもしれません。
ただ、柳沢染子のお墓は、笠森お仙のお墓がある正見寺のすぐそばにありますので、ご案内しておきます。
柳沢染子のお墓は臨済宗妙心寺派のお寺である龍興寺にあります。
龍興寺は、寛永6年(1629)に牛込津久土明神下に創建され、承応3年(1654)には小石川小日向に移転し、さらに、明治41年中野区上高田へ移転しました。下写真は龍興寺の本堂です。

柳沢染子のお墓は、本堂の裏手にあります。お墓の表面には「霊樹院殿月光寿心大姉」という柳沢染子の戒名が刻まれています。(下写真)

柳沢吉保は、5代将軍綱吉の側用人を勤め、綱吉の寵臣で、佐貫藩で大名となった後川越藩主となり、その後、甲府藩15万石の藩主まで栄進をしました。
その柳沢吉保は、上野国館林藩士柳沢安忠の長男として江戸市ヶ谷に生まれました。
吉保の母は柳沢安忠の側室の佐瀬氏(了本院)でした。
了本院は、柳沢吉保を生むとまもなく、吉保を正室の子として育てるため実家に帰され、吉保は生母を知らずに育ちました。そして父親の正室が亡くなった後、生母の存在を知った吉保は20年ぶりに母子の名乗りをあげました。
柳沢染子は、吉保の生母了本院に侍女でした。
柳沢染子は、柳沢氏の領地上総国市袋村の郷士飯塚正次の三女として生まれた、了本院に仕えていました。
柳沢吉保の正室は、甲州出身の旗本の曽雌定盛の次女定子でしたが、子供が生まれなかったため、正室定子と相談のうえ、染子が側室に挙げられたようです。
そして、貞享4年(1687)9月3日に、染子は柳沢吉保の嫡男となる吉里を生んでいます。そして、吉里が嫡子となりました。
そのため、染子は正室定子に準ずる地位を与えられていました。
そして、宝永2年(1705)5月10日になくなりました。41歳でした。
この柳沢染子は、5代将軍の側室であり、懐妊したまま、柳沢吉保が拝領し、それから生まれたのが柳沢吉里だという話があります。
つまり、柳沢吉里は、5代将軍綱吉の御落胤ということになります。そこで、柳沢吉保は、柳沢吉里を徳川綱吉の養子にして将軍職を継がせようとしたという話にまで発展していているようです。
しかし、これらはあくまでも俗説のようで、柳沢吉保邸へ、徳川綱吉がしばしば訪れているため、それは、徳川綱吉が染子と吉里に会うために御成になったためと考えられたことなどから、そうした俗説が唱えられたようです。
赤印が龍興寺です。青印が正見寺です。

