お美代の方と講安寺(江戸のヒロインゆかりの寺社⑦)
今日は、江戸のヒロインゆかりの寺で、11代将軍家斉の側室お美代の方ゆかりの講安寺を紹介します。
講安寺は、東京メトロ千代田線湯島駅1番出口から徒歩5分の所にあります。
有名な旧岩崎邸庭園の北側の無縁坂沿いにあります。しかし、旧岩崎邸庭園の入口は、耕安寺より手前にありますので、講安寺を知っている人は少ないと思います。

講安寺は、お美代の方が明治になってから暮らした場所で、亡くなったのも講安寺であったといわれています。
下写真は本堂ですが、防火機能が高い土蔵造りという建築様式で造られていて、文京区の文化財に指定されています。

お美代の方は、11代将軍徳川家斉の側室で、多くの側室の中で家斉から最も寵愛を受けたといわれている側室です。
父親は、中山法華経寺の智泉院の住職の日啓と書かれたものが多いのですが、国史大辞典によれば、「父は内藤造酒允就相、川尻与兵衛、中山法華経寺の日啓などとの諸説があり一定しない」と書いてあります。
はじめ駿河台の旗本中野清茂(清武ともいう)の屋敷へ奉公に上がりましたが、中野清茂はお美代を自身の養女として大奥に奉公させまました。
お美代の方は美しかったので、家斉の目にとまり、寵愛を受けるようになり、文化7年(1810)に御中臈となりました。
そして、文化10年(1813)3月26日に溶姫、文化12年(1815)10月17日に仲姫、文化14年(1817)9月18日に末姫を産みました。
仲姫は3歳で亡くなりましたが、溶姫と末姫は成長し、溶姫は加賀藩主前田斉泰(なりやす)、末姫は安芸国広島藩主浅野斉粛(なりたか)へ嫁入りしました。
お美代の方は、天保7年(1836)、家斉に働きかけて鼠山感応寺を建てもらい、実父の日啓が感応寺の住職となりました。
天保12年(1841)に家斉が亡くなると、剃髪し専行院と名のりました。家斉がなくなると、老中首座の水野忠邦は、家斉の側近たちを排除し、天保の改革を開始しました。
水野忠邦は、頽廃した綱紀の粛正と経費削減に乗り出し、寺社奉行阿部正弘により感応寺住職であった日啓は捕縛され、遠島とされました。(実際には島に流される前に牢死しています)
こうしたことから、お美代の方も、かつての栄光はなくなりました。
そして、前田家に輿入れした溶姫の願いにより、加賀藩前田家に引き取られました。しかし、溶姫が加賀藩国許の金沢に行くことになり、浅野家に移りましたが、続いて浅野家に嫁いだ末姫も国許に行くこととなり、そこを出ることとなりました。
そして、明治になってからは、お美代の方は、加賀藩前田家の上屋敷近くにある講安寺で暮らすことになりました。
溶姫は、明治元年5月1日に亡くなっていますので、こうしたことも、加賀屋敷の外で暮らすことになった理由ではないかと私個人は考えています。
そして、お美代の方は、明治5年6月11日に講安寺で亡くなりました。
国史大辞典でも「墓所未詳」と書いてありますので、講安寺を訪ねて、お美代の方のお墓が講安寺にあるかどうか確認させていただきましたが、講安寺にはないとの回答で、お美代の方のお墓はどこにあるのかわかりません。
赤印が講安寺です。

