お美代の方と谷中天王寺(江戸のヒロインゆかりの寺⑧)
お美代の方ゆかりのお寺をもう一つ紹介しておきます。
それは、谷中の天王寺です。天王寺はJR日暮里駅南口から徒歩5分の至近距離にあります。
下写真は天王寺の本堂です。

谷中天王寺は、谷中七福神の一つの毘沙門天があるお寺として現在でも有名ですが、江戸時代は富くじ興行でも有名なお寺でした。
谷中の天王寺は、現在は天台宗のお寺ですが、元禄年間までは、日蓮宗のお寺でした。また江戸時代後期までは感応寺といいました。
お美代の方の実父は、日蓮宗の中山法華経寺の日啓でした。
そこで、お美代の方は父のために大きな寺院を望み、富くじが盛んな感応寺を元の日蓮宗に改宗させ、日啓を感応寺の住職にしようとしました。
そのため、幕府から天保4年に寛永寺に対して、感応寺を日蓮宗に戻すという命令が伝えられました。
これに対して、寛永寺住職の輪王寺宮は、感応寺が天台宗に変わった次のような経緯を伝え幕府へ抗議しました。
感応寺は、江戸時代前期には、日蓮宗の不受不施派のお寺でした。しかし、幕府は不受不施派を弾圧し、感応寺に改宗を強要しました。しかし、時の住職日遼は改宗に応じず八丈島へ遠島になりました。
そして、日蓮聖人像はじめ日蓮宗関係の品々も、それぞれ近隣の瑞輪寺等の日蓮宗の寺院に移管され、感応寺は廃寺の危機を迎えました。
しかし、寛永寺の住職である輪王寺宮公弁法親王が、由緒ある感応寺が廃寺となるのを惜しみ、天台宗寺院として存続することを幕府にお願いして認められました。
寛永寺は、こうした天台宗となった経緯を幕府に伝え、改宗には簡単に応じませんでした。そのため、感応寺が日蓮宗へ改宗することは取りやめとなりました。
その代わりに、幕府から、感応寺という寺号は日蓮宗に返すようにとの交換条件が出されました。寛永寺としては寺号の変更には大きな異議はなかったため、感応寺から天王寺へと寺号を改称することになりました。
一方で、日蓮宗に返された感応寺という寺号をもったお寺が新たに天保7年(1836)雑司が谷に建立されることになり、雑司が谷にあった平藩安藤対馬守の下屋敷約3万坪の地が上知され、新感応寺の敷地となりました。
そして、天保7年12月には豪勢な伽藍が完成しました。
新感応寺には、大奥を始め御三家のなどの奥女中の参詣で大いに栄えました。
しかし、天保12年に大御所徳川家斉がなくなると、老中水野忠邦の天保の改革が始まり、新感応寺も探索の対象となり、日啓も逮捕され、女犯の罪により遠島となりました。(日啓は、遠島を待つうちに獄死しました)
天保13年正月からは、新感応寺の本堂の取り壊しも始まり、3月には豪奢を誇った新感応寺はまったく姿を消してしまいました。
お美代の方の野望もついえたのです。
赤印が天王寺です。

