大橋巻子のお墓(1)(江戸のヒロインの墓㉕)
谷中の天王寺の墓地には、江戸検お題テキスト「江戸のヒロイン」に載っている大橋巻子のお墓があります。
大橋巻子のお墓は大橋家の墓所の一画にあります。
下写真が大橋家の墓所の全体写真ですが、天王寺の墓地は、都立谷中霊園と接していますが、谷中霊園のように墓所番号表示がされていないため、大橋家の墓所を探すのは大変です。やはり、天王寺の寺務所で問い合わせてからお参りするのが一番よいと思います。

大橋巻子のお墓は、その夫大橋訥庵と並んで建てられています。(下写真の右が大橋巻子、左が大橋訥庵のお墓です)
大橋巻子について語るには、大橋巻子の夫大橋訥庵について述べた後のほうが良いので、まず今日は大橋訥庵について話をします。
大橋訥庵は宇都宮藩の儒者で、坂下門外の変での老中安藤信正の襲撃には加わりませんでしたが、その計画を立案した中心人物で実質的な首謀者です。

大橋訥庵は長沼流兵学者清水赤城の4男として江戸飯田町に生まれました。訥庵は号、名は正順、通称順蔵と言いました。
大橋訥庵は、幼いころから学問を好み、20歳の時、佐藤一斎の愛日楼塾に入門し、同門には佐久間象山、山田方谷などがいます。
天保12年(1841)、26歳の時、佐藤一斎の勧めにより、江戸日本橋の豪商「佐野屋」の大橋淡雅の娘巻子と結婚しました。
結婚を機に大橋訥庵は日本橋に思誠塾を開き弟子を育成しました。また大橋淡雅の援助で宇都宮藩に仕え、江戸藩邸で月1回講義を行い、大橋訥庵の影響が宇都宮藩に浸透するようになりました。
大橋訥庵は、過激な攘夷論を主張し、ペリー来航時には幕府に攘夷の実行を迫る上書を提出しています。また安政の大獄の際には、刑死した頼三樹三郎の遺骸が小塚原に放置されているのを忍び難いと考え密かに埋葬しています。
桜田門外の変後は、和宮降嫁・公武合体に反対し、王政復古策を密奏するとともに日光輪王寺宮擁立運動に首を突っ込んだりしましたが、うまくいきませんでした。
そこで、水戸藩士と宇都宮藩士による老中安藤信正襲撃計画を立案し、その斬奸趣意書を起草したといわれています。この計画が実行され坂下門外の変となります。
一方で一橋慶喜を擁立して攘夷を実行しようとする運動が宇都宮藩内で計画され、大橋訥庵はそれにも協力して一橋慶喜に仕える元弟子の山本繁三郎に、その計画を話し仲立ちを依頼したところ、その内容の重大なことに驚いた山本繁三郎が老中久世大和守に訴え出て幕府の知るところとなり、大橋訥庵は文久2年(1862) 1月12日に、町奉行所に捕らえられました。
老中安藤信正襲撃を計画していた同志は、大橋訥庵逮捕の報を聞くと、一刻の猶予もないとして、大橋訥庵逮捕の3日後の文久3年1月15日坂下門外で老中安藤信正を襲撃しました。これが有名な坂下門外の変です。
逮捕された大橋訥庵は、尋問にも耐えていましたが、非常に不潔な牢環境で体調を崩していました。
ちょうどこの時期、幕政改革のため勅使として下向していた大原重徳に大橋訥庵の赦免嘆願書を提出したり、大橋訥庵と同門の山田方谷を通じて老中板倉勝静へも赦免嘆願を行いました。こうした運動の結果、文久3年7月7日、大橋訥庵は出獄が許され宇都宮藩に預けられました。
しかし、出獄直後の12日に死去しました。表向きは病死とされていますが、出獄の際に毒を盛られたのではないかとの疑いも持たれています。
亡くなった大橋訥庵は天王寺の大橋家の墓所に埋葬されました。
大橋訥庵のお墓は、「訥菴大橋君之墓」と刻まれています。(下写真)


