お貞の方(真如院)のお墓(江戸のヒロインのお墓㉗)
江戸のヒロインのお墓、今日は加賀騒動の当事者の一人お貞の方(真如院)のお墓をご案内します。
お貞の方(真如院)のお墓は、文京区向丘の長元寺にあります。
東京メトロ本駒越駅1番出口から徒歩3分の距離にあります。また、東大前駅2番出口からでも徒歩5分の距離にあります。
谷中感応寺を中興した日長上人が開山となり寛永4年(1627)千駄木に創建され、寛文2年(1662)現在地へ移転したといいます。中興開基は、前田吉徳の母預玄院でした。
お貞の方(真如院)のお墓は本堂の北側にあります。
お貞の方(真如院)は、加賀騒動の重要な人物ですので、まず加賀騒動についてお話します。
加賀騒動は、江戸時代の中期に加賀藩で起こった御家騒動です。
6代藩主前田吉徳に可愛がられた大槻伝蔵が、前田吉徳の側室お貞の方(真如院)と密通し、お貞の方(真如院)の産んだ利和(としかず)を藩主とするために、前田吉徳および7代藩主前田宗辰(むねとき)を暗殺し、さらに8代藩主前田重煕(しげひろ)を暗殺しようとしましたが、重臣前田土佐守直躬(なおみ)らが中心となって、大槻伝蔵が捕えられ、大槻伝蔵は流刑地五箇山で自害したというのが加賀騒動のストリーです。
しかし、加賀騒動は、実録ものと言われる小説から広がった物語です。
実録ものというのは、事実に虚構をまじえて興味本位につくられたもので講釈師の口述を書き留めた講談台本などを書写した読み物です。
こうしたことから、いわゆる加賀騒動の話には、事実と異なることが多いようです。
実際は、加賀藩で、財政再建のため前田吉徳が、茶坊主あがりの大槻伝蔵を重用し、経費の節減や上方での金融に独自の腕を振るわせ、それが成功したことから、大槻伝蔵が異例の出世をとげました。これに対して、保守派の重臣たち特に前田直躬が大槻伝蔵を嫌い、延享2年(1745)前田吉徳が亡くなりと、大槻伝蔵は後ろ楯がなくなり失脚し、寛延1年(1748)越中五箇山に流され、同年配所で自殺しました。
また、お貞の方(真如院)による前田重煕(しげひろ)を暗殺や大槻伝蔵との密通についても、これという罪状もつかめないところから、前田直躬らが両者の密通・密謀をでっち上げたのではないかという説もあるようです。
お貞の方(真如院)は、芝神明の神職鏑木政幸の娘で、同じく前田吉徳の側室心鏡院(次男・重熙の生母)は、お貞の方(真如院)の妹もしくは姪といわれています。
前田吉徳の側室となり、富山藩主前田利幸に嫁いだ長女総姫はじめに、利和(勢之佐)、楊姫、益姫、八十五郎の2男3女を産みました。(うち益姫は夭折)
延享2年(1745年)に前田吉徳が没したため、落飾し真如院と称しました。
前田吉徳の跡は、その長男の宗辰(むねとき)が継ぎました。
前田宗辰は、大槻伝蔵に対して厳しくあたり、大槻伝蔵を失脚させています。
しかし、前田宗辰は、延享3年(1746)に死去し、続いて次男の重熙(しげひろ)が藩主となりました。宗辰はわずか1年6ヶ月だけ藩主でした。
寛延元年(1748年)、お貞の方(真如院)の子供八十五郎が加賀藩の重臣・村井長堅の養子と決まったため、真如院は八十五郎とともに江戸を出発し、7月11日に金沢に到着しました。
ところが、お貞の方(真如院)の旅行中の6月26日と7月4日、江戸藩邸で、茶釜に毒をいれ、藩主の前田重熙や浄珠院(6代藩主宗辰生母)を毒殺しようという事件が起こりました。
調査の結果、お貞の方(真如院)の娘の楊姫付きの中臈浅尾に疑いがかけられ、浅尾はお貞の方(真如院)の命令によって行ったと自白しました。
そのため、お貞の方(真如院)は、金沢の金谷御殿に幽閉されました。
さらにお貞の方(真如院)の居室から、大槻伝蔵の手紙が見付かったとされ、大槻伝蔵と密通していたと疑いを掛けられました。(これは今では前述したようにでっちあげだと考えられています。)
これらによって、お貞の方(真如院)は終身禁固と決められたが、体調を崩していたため、そのまま金谷御殿の縮所で幽閉されました。
お貞の方(真如院)は、寛延2年2月15日、病死しました。享年42歳でした。
そして、金沢の経王寺に葬られました。
江戸の長元寺のお貞の方(真如院)のお墓は、後日、建てられた供養墓のようです。
赤印が長元寺です。



