明治神宮の鎮座(原宿散歩②)
明治神宮は、初詣客が300万人を超え、全国一初詣客の多い神社として有名です。しかし、これほどの参拝客がありながら、明治神宮がいつ鎮座したかについてはよく知られていないそうです。そこで、今日は明治神宮の鎮座について書いてみます。下写真は第一鳥居です。
明治神宮は明治天皇と昭憲皇太后をお祀りする神社で、大正9年11月1日に鎮座した神社です。
明治天皇は明治45年7月30日に、数え年61歳で崩御され、大正元年9月13日に青山練兵場(現在の神宮外苑)で大葬が行われました。
明治天皇の崩御の報を聞いた当時の東京市長阪谷芳郎や渋沢栄一を中心とした東京の人々は、明治天皇陵を東京に誘致したいと考え、誘致運動を始めました。
しかし、明治天皇は、明治天皇の遺言によって京都の桃山御陵に埋葬されることとなり、東京の人々の願いは消えました。
そこで、明治天皇陵を誘致しようとしていた人々から、明治天皇をお祀りする神社を創建しようという案が出されました。
明治天皇をお祀りする神社を創建する場所として、東京以外にも、神奈川県の箱根、埼玉県の朝日山(飯能市)、千葉県の国府台、茨城県の筑波山、静岡県の富士山など多くの立候補があり、誘致運動が展開されました。
そうした中で、大正2年12月20日、政府は明治天皇を奉祀する神社の創建について調査するため伏見宮貞愛親王を総裁とする神社奉祀調査会を設置し、大正3年1月15日に神社奉祀調査会が東京府下に明治天皇をお祀りする神社を創建すると決定しました。 下写真は本殿前の楼門です。
しかし、東京府下に創建するといっても、東京にもいくつの候補地があり、その中でどこに創建するかというのが次のテーマとなりました。
東京府下では、陸軍戸山学校敷地(現在の新宿戸山公園辺り)、白金火薬庫跡(現在の白金の自然教育園)、代々木御料地(正式名は南豊島御料地、現在の明治神宮)のほか、青山練兵場跡(現在の神宮外苑)、さらに青梅の御嶽山といった候補地もありました。
こうした候補地のうち、候補地への実地調査などを行い、大正3年2月15日に、最終的に代々木御料地に創建すると決定されました。
代々木御料地が選ばれた理由について伊東忠太は次のように語っています。
候補地の第一であった戸山学校は、広さはまず充分であるが、一部に老樹があるが概して樹林に乏しく、土地が渓谷によって両断されて社殿を配置するに適していないこと。次に白金の火薬庫の敷地は老樹巨木鬱蒼として茂っているが、敷地が狭く、広い参道を取るのに不便な地勢だったこと。
そして、第三の候補として代々木御料地があり、土地は高燥であり地盤も堅牢であり、元来加藤清正の邸であったと伝えられ、その後井伊家の下屋敷になったので美しい御苑があり、昭憲皇太后は行啓あり、明治天皇も行幸になったことがある土地でした。代々木御料地は、いくつかの欠点があり、理想的な敷地ではないけれども、戸山学校や白金火薬庫跡に比べればすぐれていたし、やこの他には東京市の内外にこれに優る候補地が見当たらない。
地鎮祭が大正4年10月に行われ、まず、境内に樹木を植える工事が始まりました。樹木は、日本全国から献納されました。そして、大正8年7月に上棟祭が行われ、大正9年11月1日に鎮座しました。 11月1日当日は、天気は雲だったものの1日だけで50万人もの参拝者があったと当時の東京朝日新聞は報じています。下写真は現在の本殿です。
また、神宮の造営工事には全国から延べ11万人もの青年団が勤労奉仕として参加しています。樹木の献納とともに、明治神宮の創建が、当時の国民全体にとって待ち望まれたものであったことを表しているように思います。