明治神宮の御祭神(原宿散歩⑥)
明治神宮は、大正9年に鎮座しました。その時に建てられた本殿は、昭和20年の戦災により、焼失しました。
現在の社殿は、昭和33年に再建されたものです。
明治神宮の御祭神は、明治天皇と昭憲皇太后です。
明治天皇は、孝明天皇の第2皇子として生まれ、母は中山慶子です。慶応3年(1867)に孝明天皇が急死したため、15歳で践祚(せんそ)しました。王政復古の大号令の後、東京に遷都し、大日本帝国憲法の発布などをとおして近代国家を樹立し、日清・日露の両戦争にも勝利し、日本を欧米列強に肩を並べる強国に押し上げました。
晩年は、糖尿病を患い、明治45年7月30日に数え年61歳で崩御し、大正元年9月13日、青山練兵場(現在の神宮外苑)で大葬が行われました。
昭憲皇太后は、一条忠香(ただか)の三女として誕生しました。明治元年12月28日明治天皇の皇后に冊立され、以後、女子教育の振興や、社会事業の発展、国産の奨励等に尽力しました。
宮中で養蚕を始めたことや日本赤十字社への関与などは、以後の皇后のあり方の模範となっています。
明治神宮の御祭神は、明治天皇と昭憲皇太后ですが、そのうち昭憲皇太后は、明治天皇のお后(きさき)なので、「皇太后」でなく「皇后」とお呼びするのが正しいのではないかという意見もありますが、現在も昭憲皇太后と呼ばれています。
なぜ、昭憲皇太后と呼ばれているのか、明治神宮のホームページに詳しく書いてありますので、それを参考に、昭憲皇太后と呼ばれている事情を書いてみます。
昭憲皇太后は、大正3年4月11日に崩御し、「昭憲皇太后」と呼ばれることとなり、大正4年5月1日に、明治天皇とともに明治神宮の御祭神として祀られることになりました。
その際に、祭神名として「明治天皇・昭憲皇太后」が発表されました。
ところがこの祭神名について有識者の中から次のような疑問の声が出てきました。
① 両陛下を相並んでお呼びする場合、「天皇皇后両陛下」と称するのであって、「天皇皇太后両陛下」とは称さないので、明治神宮の祭神は夫婦であるから「明治天皇・昭憲皇后」が正しい。
② 亡くなった方にはご生前の時の最高の位でお呼びすることが常例。「皇太后」の称号は「皇后」より下の位になる。だから昭憲皇太后ではなく「昭憲皇后」と称するのが正しい。
こうした疑問が起きたわけですが、昭憲皇太后という祭神名がつけられたのには次のような事情があったようです。
昭憲皇太后が崩御したのは大正3年です。この時に、すでに明治天皇は崩御し、大正天皇が即位していたので、崩御した時には昭憲皇太后と呼ばれていました。
そのため、当時の宮内大臣が昭憲皇太后の追号を皇后に改めないで、「昭憲皇太后」としてそのまま大正天皇に上奏し裁可されたのです。
この上奏が間違えていたため、そのまま祭神名も「昭憲皇太后」となってしまったのです。
このような経緯から明治神宮の祭神名としてそぐわぬことから「昭憲皇太后」を「昭憲皇后」と改めるよう、鎮座寸前に明治神宮奉賛会会長徳川家達から宮内大臣宛へ建議が出されました。
しかし次の理由から御祭神名を改めることは出来ませんでした。
① 天皇より御裁可されたものはたとえ間違っていても変えられない。
②すでに御神体に御祭神名がしるされていて、鎮座の日までに新しく造り直すことが無理である。
その後も、昭和38年の昭憲皇太后50年祭の際には明治神宮と明治神宮崇敬会から、さらに明治維新百年の前年の昭和42年に祭神名を訂正するようにという願いが明治神宮崇敬会から宮内庁に提出されましたが、宮内庁からの回答は御祭神の名前は改めないとものだったそうです。
こうした事情があり、現在も、明治神宮の御祭神は「明治天皇・昭憲皇太后」となっています。
《夫婦楠(めおとくす)》
本殿前の左側に大きな楠が二本並んで立っています。(下写真)
この二本の楠は夫婦楠(めおとくす)と呼ばれています。
二本の木の間にはしめ縄がわたされ、しめ縄には紙垂(しで)がかけられています。この夫婦楠は、明治天皇と昭憲皇太后の夫婦仲を象徴しているといわれていて、縁結び、夫婦円満、家内安全の御利益がある明治神宮の御神木(ごしんぼく)です。
下写真は、夫婦楠の前を通る、結婚式を挙げて披露宴に向かう新郎新婦たちです。夫婦楠の御利益により、このお二人もきっと幸せな家庭を築くことでしょう!