明治神宮御苑(原宿散歩⑦)
明治神宮の境内の南西部は、明治神宮御苑となっています。
御苑には、東門と北門と二つの入口がありますが、東門は土曜日曜には開門されますが、平日は、東門は閉ざされていて、北門だけが開かれています。下写真は、北門の写真です。
明治神宮御苑は、江戸時代初期以来、熊本藩加藤家、彦根藩井伊家の下屋敷の庭園でしたが、明治時代に宮内省の所轄となり、代々木御苑と呼ばれ、明治天皇、昭憲皇太后がたびたび訪れた場所です。
御苑内は、清正井(きよまさのいど)から流れ出た流れの下流に菖蒲田があり、その水が溜まった南池(なんち)を中心に広がっています。そして水際には隔雲亭(かくうんてい)、御釣台、四阿(あずまや)があります。
《清正井(きよまさのいど))
明治神宮御苑の中に都会では珍しい湧水の井戸があります。
加藤清正が掘ったという言い伝えから「清正井(きよまさのいど)」と呼ばれています。清正井は、パワースポットとされて、一時期、大ブームになったことがあったようです。
現在も、一列に並んで、順に清正井を見る仕組みとなっていますが、大ブームになった際には、大行列ができて、清正井を見るのに多くの時間がかかったと伝えられています。最近は、1時間以上も並ぶことはないようですが、日によっては、下写真のように並ぶこともあります。
「清正井(きよまさのいど)」は、昔から加藤清正が掘ったとされています。
しかし、「清正井」は、本当に加藤清正によって掘られたものかどうかは不明です。というのは、「清正井」のある場所は、江戸時代、熊本藩加藤家の下屋敷があり加藤清正の子忠広が住んでいたことは間違いないようですが、加藤清正本人が住んでいたかは定かではないためです。
明治神宮の場所が彦根藩井伊家の下屋敷となったのは、熊本藩加藤家が寛永9年(1632)に改易された後のことです。
下写真は清正井の全体像です。
清正井は自然の湧水ですが、明治神宮の造営当時、すでに横井戸(普通は竪井戸)であることは解っていましたが、水源はどこなのか、またどのようにして流れてきているのかまったく不明だったそうです。
この井戸は年間を通じて涸れることがなかったのですが、明治神宮造営当時に清正井のまわりの木を伐採したり移し替えたら一時水が枯渇してしまいました。そこで、あわてて樹木を植え戻したら元のように水が出始めたそうです。
また、昭和8年の大干ばつには一時湧水が止まったので昭和13年修復工事を行うこととなり、それと同時に水源の調査が行われました。その結果水源は、明治神宮の本殿西側付近一帯の浅い地下水が二方向の自然の水路に流れて、井戸の上方斜面から井戸に湧出するまったく自然の湧水であることが解ったそうです。
清正井は、鉄枠で囲まれていますが、良く見ると、鉄枠に横穴が開いているのが確認できます。ただし、横穴がある部分は水の中ですので、下の写真では横穴は確認できません。
清正井は、東京都の調査では水温は四季を通じて15度前後と一定していて、毎分60リットルの水量があるそうです。 実際に手で触れてみると余り冷たくは感じませんし、結構な水量が流れでていることが確認できます。
《菖蒲田》
菖蒲田は、江戸時代には井伊家の家臣の子女が米作りの大切さや苦労を学ぶための稲田でした。そこに、明治26年、明治天皇が昭憲皇太后のために花菖蒲を植えさせたもので、現在も大切に育てられています。当初は80余種であったものが、現在は150種にふえていて、株数は1500株あまりとなっていて、6月頃には見事な花を咲かせます。
花菖蒲には、江戸種、伊勢種、肥後種と三種類ありますが、明治神宮の菖蒲田には江戸種の花菖蒲が植えられています。
下写真は、11月下旬に撮った菖蒲田ですが、花菖蒲は見られませんでしたが、色づき始めた紅葉が綺麗でした。
《南池(なんち)と御釣台》
菖蒲田の下流は、大きな池となっています。これが南池です。(下写真)井伊家時代には「お泉水」と呼ばれていました。
面積は約8000㎡(約2400坪)あります。この南池の水源は清正井です。南池からの流れ出た小川は、昔は、南参道の神橋の下を流れ、竹下通りの西側を流れ、渋谷川(隠田川)に合流していました。なお、明治神宮には、南池のほか、東池、北池もあります。
御釣台は、南池に張り出されて造られたもので、魚釣りをするために明治天皇の意向により造られた施設です。昭憲皇太后は、ここで、魚釣りを楽しんだと伝えられています。
《隔雲亭(かくうんてい)》
隔雲亭は、 明治天皇の意向により昭憲皇太后のために明治33年に建てられたものですが、戦災により焼失しました。 現在の隔雲亭は、昭和33年に再建されたものです。