東郷平八郎元帥を祀る東郷神社(原宿散歩⑨)
原宿散歩、今日は東郷神社をご案内します。
東郷神社は、「原宿駅」竹下口より徒歩3分で行けると東郷記念館のホームページには書いてあります。
しかし、原宿駅表参道口から表参道を通って神宮前交差点を左折して明治通りに沿って歩いていくのが最もわかりやすいと思います。原宿駅から徒歩10分の距離にあります。
その他、竹下通りを歩いて、その途中から東郷神社に行くルートもあり、このルートは徒歩5分でいけます。
下写真は、明治通り側の表参道にある鳥居です。
東郷神社は、東郷平八郎元帥をまつる神社です。
東郷元帥が昭和9年5月30日に亡くなると、財団法人東郷元帥記念会が設立され、神社創建の運動をおこしました。
東郷神社の候補地としては、①東郷元帥が生前に住んでいた麹町の自宅、②多磨墓地近くの東郷元帥の別荘跡なども候補地として上がりましたが、東郷元帥が仕えた明治天皇が祀られている明治神宮の近くが良いということで池田侯爵家の屋敷が有馬良橘海軍大将から提案されました。(有馬良橘海軍大将は、日露戦争では連合艦隊参謀として東郷平八郎元帥に仕え、東郷元帥の国葬の際、葬儀委員長を務め、国葬直前まで明治神宮宮司していました)
下写真は社殿前の神門です。
池田侯爵家は、旧鳥取藩主で、文久2年(1862)、藩主池田慶徳のときに東郷神社がある土地を入手しました。それ以前は、石見国津和野藩亀井家の抱屋敷でした。大正4年に、池田侯爵家は麻布市兵衛町から本邸をここに移しました。
池田侯爵邸は、広さ約2万坪あり、うっそうとした樹木に囲まれ中央に800余坪の池がありました。現在の東郷記念館前の池は当時のものを利用した池だそうです。(下写真は、池の淵から撮った東郷記念館です)
有馬大将が池田侯爵家を訪ね、敷地の一部譲渡を要請すると、数日後、池田侯爵家から快諾の回答があり、約1万2千坪が神社用地となりました。池田家では、当時、約2万坪ある屋敷地のうち3分の2を分譲する案が検討していたという事情もあったようです。
こうして、創建すべき土地が決まり、全国から寄付が集まり、東郷神社は、昭和15年5月27日に創建されました。
5月27日は日露戦争の歳に、日本海海戦がおこなわれた日で、東郷神社創建当時は海軍記念日となっていました。
その記念すべき日に東郷神社は鎮座しました。
しかし、東郷神社は、鎮座後まもなくの昭和20年に空襲で社殿が焼失してしまいました。現在の社殿(下写真)は、昭和39年に再建されたものです。
《東郷平八郎の経歴》
弘化4年(1847)12月22日に、薩摩藩鹿児島下加治屋町(同じ町で西郷隆盛や大山巌などが生まれ大久保利通が育った町)で生まれました。薩英戦争に参加し、戊辰戦争の際に薩摩藩の軍艦「春日」に士官として乗り組み、阿波沖で幕府軍艦「開陽」と戦いました。
明治維新後の明治4年から明治7年まで3年間イギリス留学。日清戦争では、「浪速」艦長として出役。明治34年には舞鶴鎮守府司令長官を勤め、明治36年12月連合艦隊司令長官になり、明治37年6月に大将に昇進し、翌明治38年5月27日の日本海海戦で、ロシアのバルチック艦隊を撃破しました。大正2年4月元帥、死去の前日昭和9年5月29日に侯爵を授爵し、翌30日亡くなりました。88歳でした。
東郷平八郎元帥の葬儀は国葬として執り行れ、多磨墓地に埋葬されました。
※東郷平八郎が亡くなった時点での皇族以外の国葬は次の9人
岩倉具視、島津久光、三条実美、毛利元徳、島津忠義、伊藤博文、大山巌、山県有朋、松方正義
国葬には、英米仏海軍も、極東艦隊司令長官と旗艦を派遣し弔意を表しました。この時派遣されたアメリカ海軍旗艦の艦長ニミッツは、後に太平洋戦争の際のアメリカ海軍太平洋艦隊司令長官となり、日本海軍と戦いましたが、東郷平八郎元帥を大変崇拝していました。
赤印が東郷神社です。