平田神社(代々木散歩①)
代々木散歩で最初に訪れたのは平田神社です。
平田神社は、代々木駅西口からは約7分です。小田急線の南新宿駅からですと約6分で行くことができます。
平田神社は、平田篤胤をお祀りした神社です。
平田篤胤は、国学の四大人(したいじん)の一人に挙げられる、江戸時代後期の国学者です。
国学とは、儒教・仏教渡来以前の日本固有の文化を究明しようという学問で、漢学に対していった言葉で、四大人とは荷田春満・賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤をさします。
平田神社は、明治初年、東京の柳島横川町(現墨田区)に平田家の邸内社として創祀され、明治14年11月、東京小石川第六天町(文京区)に遷座しました。
第六天町の境内が、東京メトロの車両基地となったことから、昭和34年11月、現在地に遷座しました。現在の社殿は、昭和62年6月に新築されたものです。
御利益は様々ありますが、平田篤胤ゆかりの神社であることから学問の神様といわれています。
また、昭和62年に昭和天皇が手術をした際の執刀医であった森岡東大教授が崇敬していて、手術が行われた日にも参拝したことから一躍有名となりました。
宮司は、代々、平田篤胤の子孫が勤めています。
《平田篤胤》
平田篤胤は、江戸後期の国学者。秋田藩士大和田祚胤(としたね)の子として生まれ、20歳で脱藩して江戸に出、備中松山藩士平田篤穏(あつやす)の養嗣子となり、独学によって国学者として自立し、初め真菅乃屋(ますげのや)、のちに気吹乃屋(いぶきのや)と称しました。
また本居宣長の没後の門人ながら、生前に入門したと自称し、その後継者をもって自任しました。しかし、その文献学的方法は継承せず、思想、学問の性格には大きな差異があると言われています。
彼の学問が独特の姿を現したのは『霊の真柱(たまのみはしら)』です。この中で、人は死後、本居宣長のいうように夜見(よみ)に行くのではなく、大国主(おおくにぬし)神の支配する幽冥(ゆうめい)に行くとして死後の安心を説いています。
このことは、一方で本居一門のひんしゅくを買うものの、独自の立場を確立して自信を深めた平田篤胤は、インド、中国さらには西洋の神話・伝説をも用いて世界の成り立ちを解明しようとしました。
また幽界に往来したと称する少年や別人に生まれ変わったという者の言をも信じ、そこから直接幽界の事情を研究して『仙境異聞』『勝五郎再生記聞』なども書きました。
こうして平田篤胤は本居宣長の影響を完全に脱し『古史伝』を著述しますが、『古史伝』は未完に終わります。
平田篤胤の実践的な学問は多くの人の支持を受け、天保12年(1841)幕命で秋田藩が国元に帰らせてからも門人は増え続け、553人に達したといいます。
平田篤胤によって発展された国学や神道説は、平田国学や平田神道と呼ばれ、幕末の尊王攘夷運動の中核的イデオロギーとなり、明治維新期の神仏分離・廃仏毀釈にも大きな影響を与えました。
島崎藤村の名作「夜明け前」には、平田篤胤が唱えた国学が木曽地方の知識人に大きな影響を与えた様子が描かれています。
「夜明け前」の主人公青山半蔵は、木曽馬籠で本陣・問屋・庄屋を兼ねた人物で、島崎藤村の父島崎正樹がモデルと言われていますが、この青山半蔵が学んだのが平田国学でした。
赤印が平田神社です。




