福泉寺と斎藤弥九郎の墓(代々木散歩⑦)
今日は、福泉寺についてご案内します。
福泉寺は、江戸時代、代々木八幡宮の別当寺でした。
そのため、福泉寺は代々木八幡宮の参道の東側に接してあり、代々木八幡宮の参道からお参りできます。戦前に建てた本堂が昭和20年の戦災で全焼しため、昭和34年に現在の本堂(下写真)が再建されました。
福泉寺の創建は、寺伝によれば、源頼家の旗本近藤三郎是茂の家人、荒井外記(げき)智明という武士が、修禅寺事件(1203)以後代々木の地に隠居し、夢の中で神から宝珠のような鏡を感得したので、名を宗友と改め、鶴岡八幡宮を勧請して庵を創建したといいます。
創建以後久しく荒廃していましたが、江戸時代に至り、正保元年(1644)浄土宗より天台宗に改めました。
寛文4年(1664)第3世長秀法印(中興開基)のとき、紀州藩徳川頼宣の側室円住院殿の後援を得て、寛文11年(1671)より翌12年にかけて、代々木八幡宮と共に、現在の地に移りました
円住院殿は大和添上郡岩掛城主山田政秀の六女と伝えられ元和8年(1622)紀伊藩祖徳川家頼宣の側室となり、当寺三世長秀と同族との関係によって、当寺で法要など営んだということです。
福泉寺の墓域には、円住院殿のお墓があります。(下写真)
円住院の娘松姫は上野吉井藩の始祖となる松平氏に嫁したところから、福泉寺は吉井松平家の崇敬をも得て次第に寺運は隆盛し、「江戸名所図会」所載の如き堂宇が整いました。円住院及び松平家では、仏像、仏具、田畑など多く当寺に寄進し、その存続発展に資するところが多かったといいます。しかし、現在は吉井松平家ゆかりのものは福泉寺には残されていないと御住職がおっしゃっていました。
《斎藤弥九郎のお墓》
斎藤弥九郎のお墓が福泉寺墓所の松の木の下にあります。(下写真の松の木の下の三角形のお墓が斎藤弥九郎のお墓です)
斎藤弥九郎は、幕末の剣術家で、彼が始めた練兵館は、千葉周作の玄武館,桃井春蔵の士学館とともに幕末江戸3大道場ひとつに数えられました。斎藤弥九郎の名は善道、晩年篤信斎(とくしんさい)と号しました。墓正面には「贈従四位 篤信斎斎藤先生之墓」と刻まれています。(下写真)
斎藤弥九郎は、越中国(富山県)氷見郡仏生寺村の農家に生まれました。文化9年(1812)志をたてて江戸に出て、旗本能勢祐之丞(のせすけのじょう)の家僕となり、15年神道無念流岡田十松吉利の撃剣館に入門し、初めて剣術を学びました。撃剣館では、江川太郎左衛門,藤田東湖らと親交を結びました。斎藤弥九郎の修業ぶりは目覚ましく、わずか数年の間に先輩たちを凌駕して、代稽古を勤め、岡田十松の没後は、嗣子利章を補佐して道場の経営にあたりました。この間、剣術だけでなく、儒学、馬術、兵学を学び、のちに砲術も学んでいます。同門の江川太郎左衛門英龍と特に親しく、江川太郎左衛門英龍の援助により、29歳で九段坂下俎橋(まないたばし)畔に道場練兵館をおこし独立しました。その後、天保9年(1638)三番町に移しました。現在の靖国神社の境内です。天保6年(1835)江川が伊豆韮山の代官になるとその手代として、西洋銃隊調練や品川台場の築造などに当たりました。また、このころ渡辺崋山とも知り合っています。
練兵館には、全国から入門者が集まりましたが、長男の新太郎(2代弥九郎,1828~88)が萩で長州藩士の剣術指導をしていたことから,練兵館には長州の志士が多く集まり,門下三千余人ともいわれた。当時盛んになってきた竹刀打ち込みの剣術稽古を採用し,門下から桂小五郎,高杉晋作,品川弥二郎らが出ています。
明治維新後、新政府に出仕し、会計官権判事となり、造幣局権判事を務め大坂に在職しました。
それ以前、安政5年(1858)開墾地として福泉寺から3375坪の土地を購入し、三番町の道場から月に数回、門下生を連れて来て、自ら指揮をして開墾を行わせ、砲台築造の練習もしました。その後代々木付近一帯に茶園を開き、代々木茶の名をおこしました。
晩年は、隠居場を「代々木山荘」と名付け代々木に移り住みました。
明治4年10月24日没、享年74歳でした。遺言で代々木山荘に葬られますが、のちに小石川昌林院に改葬し、弥九郎の遺志を生かすため、改めて明治38年福泉寺に改葬しました。墓碑には明治40年に建立されたことが刻まれています。
赤印が福泉寺です。青印が代々木八幡宮です。