金王八幡宮②「金王丸」(渋谷散歩②)
渋谷散歩の2回目ですが、今日も金王八幡宮について説明します。
金王八幡宮は、古い昔は単に八幡宮又は渋谷八幡宮と言われていましたが、渋谷金王丸の名声が高いことから、金王八幡宮と呼ばれるようになりました。それでは、金王丸とはどういう人物かからお話します。
《金王丸》
金王八幡宮という名前は、渋谷金王丸という人物に由来するものです。
渋谷金王丸についても諸説がありますが、金王八幡宮の由緒によると次のようです。
渋谷金王丸常光(こんのうまるつねみつ)は、渋谷重家の子です。
渋谷重家には子がなく夫婦で金王八幡宮に祈願を続けていると、金剛夜叉明王が妻の胎内に宿る霊夢をみて立派な男子を授かりました。そこで、その子に明王の上下二文字を戴き「金王丸」と名付けました。
金王丸が17歳の時、源義朝に従って保元の乱で手柄を立て、その名を轟かせました。
その後の平治の乱では義朝は敗れ、東国に下る途中立ち寄った尾張国野間であえない最期を遂げました。金王丸は、京に上り常磐御前にこのことを報じたのち渋谷で剃髪し、土佐坊昌俊(しょうしゅん)と称して義朝の御霊を弔いました。
金王丸は、義朝の子である頼朝との交わりも深く、頼朝が挙兵する際は、密かに金王八幡宮に参籠して平家追討の祈願をしました。
平家滅亡後、源頼朝は源義経に謀反の疑いをかけ、これを討つよう土佐坊昌俊(金王丸)に命じました。土佐坊昌俊は断ることもできず、文治元年(1185)10月、百騎ばかりを率いて京都に上り、同月23日夜義経の館に討ち入りました。しかし、土佐坊昌俊は、はじめから義経を討つ考えはなく、捕らえられて勇将らしい立派な最期を遂げました。
金王丸は、「平治物語」に書かれているだけでなく、土佐坊昌俊として「平家物語」、「源平盛衰記」、「吾妻鏡」などに書かれています。さらに、金王丸のゆかりの地は、全国に広がってありますので、鎌倉時代には、金王丸という人物は、かなり有名人だったと考えられます。
《金王丸御影堂》
金王八幡宮の境内にある金王丸御影堂には、金王丸が17歳で出陣の折、自分の姿を彫刻し母に形見として残した木像が納められています。金王丸の木像は、3月最終土曜日に斎行される金王丸祭で御影堂の開帳があり、特別公開されます。
《金王桜》
本殿向かって左手にある金王桜(下写真)は、渋谷区指定天然記念物で、長州緋桜という種類で、雄しべが花弁化したものも交じり、一枝に一重と八重が入り混じって咲く珍しい桜です。
金王八幡宮の「社傳記」によれば、文治5年(1189)7月7日 源頼朝が藤原泰衡退治の下向の時、渋谷高重の館に立ち寄り当神社に太刀を奉納しました。その際金王丸御影堂へ参り、父義朝に仕えた渋谷金王丸の忠節を偲び、金王丸の名を後世に残すべしと厳命し、鎌倉亀ヶ谷の館にあった憂忘桜をこの地に移植させ、金王桜と名付けたとされています。
また、江戸時代盛んに作られた地誌にも紹介されており、江戸三名桜の一つに数えられました。金王桜は、現在に至るまで代々実生より育て植え継がれ、守り伝えられています。
なお、傍らには、松尾芭蕉の句碑も建立されています。(下写真)
しばらくは 花のうえなる 月夜かな