文京学院大学で「江戸の仇討」についてお話しました。
昨日は、文京学院大学生涯学習センター主催の江戸講座が開かれ、「いざ、尋常に勝負しろ!江戸の仇討ち」というタイトルで「江戸の仇討」についてお話してきました。
天気予報では、大雪の予報でしたので、荒れ模様になるかなと覚悟して出かけましたが、予報が良い方にはずれて、文京学院大学に到着した時点でも雪はまったく降っていませんでした。下写真は昨日の文京学院大学生涯学習センターです。
そして、講座終了後も、雪が降らず、鉄道のダイヤの乱れもなく無事に帰宅できました。
大雪の予報でしたので、欠席の方がでるかなとも思っていましたが、欠席もほどんどありませんでした。熱心に受講いただいた皆様、ありがとうございました。
さて、講座の内容ですが、江戸の仇討について、①仇討ちが許される条件と②有名な仇討ちについて解説するというものです。
昨日は、そのうち①仇討ちが許される条件と②有名な仇討ちのうちの「伊賀越の仇討ち」と「浜田藩江戸屋敷で仇討ち」についてお話しました。下写真が講座の様子です。
仇討ちは、幕府の許可が必要とされています。ただし許可といっても届出です。この届出がされていないと仇討ち後、拘束されて吟味がおこなれますが、確かに仇討ちであることがはっきりすれば放免されます。
また、仇討ちは、原則として目上の人の仇を目下の人が討つのが原則です。ただし、伊賀越の仇討ちのように、兄が弟の仇討をするケースもないではありません。
そうしたことを話した後、伊賀越の仇討ちについてお話ししました。
伊賀越の仇討ちは、寛永11年(1634)11月7日、伊賀上野城下鍵屋の辻で、元岡山藩士渡辺数馬が義兄荒木又右衛門とともに、弟渡辺源太夫の敵(かたき)河合又五郎を討った事件です。
日本三大仇討ちと江戸三大仇討ちの一つにそれぞれ数えられる大変有名な仇討ちです。
その仇討ちの経緯について、50分ほどの時間をかけてお話ししました。
荒木又右衛門は鍵屋の辻で仇討ちを成就した後、4年間ほど津藩藤堂家に御預けになり、寛永15年に鳥取藩に引き取られました。しかし、荒木又右衛門は鳥取に到着してわずか2週間余後の寛永15年8月28日死去しました。この結末には、参加者の皆さんが驚かれていました。
また、昨年12月に伊賀上野に取材に行きましたが、そのた際に写した写真もスライドで見ていただき、喜んでいただきました。上写真は鍵屋の辻にある文政11年建立の道標で、下写真は伊賀市萬福寺にある河合又五郎のお墓ですが、こうした写真を見ていただきました。
講座の最後には質問を受け付けましたが、参加者の皆さんからは質問が多く寄せられ、その熱心さに感激しました。
受講いただいた皆様、ありがとうございました。