板倉勝該の刃傷事件(吸江寺② 渋谷散歩⑥)
今日も、安中藩板倉家の菩提寺の吸江寺をご案内します。
吸江寺の板倉家の墓の前にある線香置きには、大きな家紋が刻まれています。

この家紋は、九曜巴(くようともえ)と呼ばれる家紋です。

この家紋を見間違えたことによっておきた江戸城内でおきた板倉勝該(かつかね)の刃傷事件についてお話します。
9代将軍徳川家重の時代の延享4年(1747年)8月15日、江戸城内での刃傷事件が起こりました。
その日は、月例拝賀の式日で総登城の日でしたが、熊本藩主細川宗孝が、旗本板倉勝該(かつかね)に殺害されたのです。
板倉勝該(かつかね)は城内で取り押さえられ取り調べが行われました。その結果、細川宗孝は板倉勝清と間違えて殺害されたことが判明しました。
板倉勝清は、安中藩板倉家の3代藩主でした。享保2年(1618)に家督を継いだ後、享保20年には、寺社奉行に就任していました。板倉勝清は、明和4年((1767)に西ノ丸老中となり、3年後は本丸老中に進んでいます。
板倉勝該(かつかね)は、下総国芳賀郡6千石を知行する板倉重浮(しげゆき)の息子として生まれました。
父の板倉重浮(しげゆき)は堀田正休の次男で板倉重大(しげもと)の養子となって板倉家を継いでいました。
板倉家を継いだのは兄の勝丘でしたが、勝丘が延享3年の12月に、亡くなったため、勝該(かつかね)が、あとを継ぎました。
しかし、板倉勝該(かつかね)には、性格的に問題があり、家内を治めていけないと思った安中藩主の板倉勝清が、板倉勝該(かつかね)を廃して、別の人物に後を継がせようとしました。それを知った勝該(かつかね)が勝清に恨みを抱き、勝清を亡きものにしようと斬りつけたと言われています。
それでは、なぜ板倉勝清でなく、細川宗孝に斬りつけたかですが、それは板倉勝該が、背中にあったその家紋を見間違えて、宗孝に斬りかかったのでした。
板倉家の家紋「九曜巴」紋が、細川家の家紋「九曜星紋」にそっくりだった事から、この日、背中にあったその家紋を見間違えて、宗孝に斬りかかったのでした。
板倉勝該(かつかね)は、そのまま水野忠辰(ただとき)に預けられ、8日後の23日に切腹、改易となりました。
一方、細川家宗孝は未だ31歳の若さで、世継ぎもおらず、後継者も未定でした。後継者がいない場合には、改易となるため、その日のうちに、弟の細川重賢(しげかた)を養子に迎え、幕府に届け出ました。そして、翌16日になって、その死亡を届け出ました。
この事件以降、細川家では、それまで使っていた九曜星紋から、少し●の小さめデザインの家紋に変更し、さらに、それまでは、背中に一つ、両胸に二つ、両そでの前側に計5つ紋だったのを、背後からも見えやすいようにと、両そでの後ろ側にも家紋を配置した「7つ紋」の特別な物にしたと言われています。
この細川宗孝の後を継いだ細川重賢は、その後、熊本藩の藩政改革を実施し名君と呼ばれています。

