松崎慊堂宅地跡(渋谷散歩⑦)
今日は渋谷散歩の続きで、松崎慊堂宅地跡をご案内します。
前回ご案内した吸江寺の東に、渋谷区郷土博物館・文学館があります。(下写真)
渋谷区の歴史・民族に関する展示のほか地下1階には渋谷区にゆかりのある作家の作品・資料などの展示がされています。

渋谷区郷土博物館・文学館がある場所は、江戸後期の有名な儒学者松崎慊堂(まつざきこうどう)の宅地だった場所です。
松崎慊堂は、熊本の百姓の子に生まれ16歳で江戸に出て、幕府の昌平黌に学びました。32歳のとき掛川藩に招かれ藩政に参画しました。
掛川藩は太田道濯の血を引く太田氏が藩主で、歴代老中など幕府の重職を担ってきた名門でしたが、藩校を新設しようという計画があり、松崎慊堂が招聘されました。掛川藩に仕えながらも、松崎慊堂は、林述斎を補佐して、朝鮮通信使と対応するなど行ない、その評価は大変高かいものでした。
しかし、文化11年(1814)44歳のときに、息子に跡を譲り隠居し、文化12年から、下渋谷村羽沢に石経山房(せっけいさんぼう)と名付けられた山荘を営み研究と門弟の教育に尽力し、弘化元年(1844)74歳で没しました。
『渋谷区史』によれば、松崎慊堂が亡くなったあと、その屋敷には、杉田玄白の孫杉田成卿が住んでいたこともあるようです。そうしたことは、渋谷郷土博物館・文学館の東側に建てられている渋谷区教育委員会の説明板にも書かれています。(下写真)

松崎慊堂は、江戸時代後期の大学者として、知る人ぞ知る大学者です。
その大学者としての松崎慊堂の名声を一層高めているのが、蛮社の獄(渡辺崋山・高野長英ら蘭学者に対する弾圧事件。蛮社とは蛮学社中の略)で逮捕された渡辺崋山の救援のために必死に奔走したことです。
そこで、松崎慊堂と渡辺崋山との関係についても触れてみたいと思います。
〔渡辺崋山救出に尽力した松崎慊堂〕
渡辺崋山は、田原藩三宅家の海防掛も兼ねた家老でした。当時、海防問題は各藩とも大きな問題であり、特に田原藩は海に接した部分が長く、無視できませんでした。そのため、海防掛を拝命していた渡辺崋山は蘭学に興味を覚えたと言われています。
渡辺崋山自身は蘭学の知識がなかったため蘭学の知識が深かった高野長英・小関三英らと交わるようになり、渡辺崋山はその蘭学グループのリーダーと目されるようになります。
これに対して、当時目付であった鳥居耀蔵(のちに南町奉行となり鳥居甲斐守耀蔵と名のったことから「ようかい」とあだ名される)の策略により、政治批判と無人島渡航計画等の嫌疑で、天保10年(1839)5月14日に逮捕されました。
渡辺崋山逮捕の報に、崋山の知人は大変驚き、救援に尽力する人がいる一方で、崋山から遠ざかっていく人もいました。そうした中で、松崎慊堂は、高齢であるにもかかわらず、すぐに崋山救出に乗り出し、松崎慊堂の友人で渡辺崋山の師でもある佐藤一斎や事件の当事者ともいえる鳥居耀蔵訪ねています。しかし、鳥居耀蔵は告発の張本人ですので、当然良い返事をするはずもなく、佐藤一斎も積極的には動いた形跡はありません。
そうした状況の中で渡辺崋山に対して重罪が下される怖れがあると考えた松崎慊堂は、ついに時の最高実力者である老中水野忠邦に寛大な処置を嘆願した意見書を提出しました。
水野忠邦はこの意見書を熟読したといわれています。
一時は死罪も噂された渡辺崋山に対して出された判決は国許蟄居で、一命を取り留めることができました。渡辺崋山が死をまぬがれたのは、渡辺崋山を心配する人たちの救援活動の結果でしたが、その中心にいたのが松崎慊堂です。
渡辺崋山も松崎慊堂の尽力を知っており、赦免後松崎慊堂にあてた手紙にあわせて白羽二重と秩父絹を贈って深く感謝しています。
こうして助命された渡辺崋山は、地元田原に蟄居していましたが、天保12年(1841)、藩主に迷惑がかかることを怖れ自害しています。
赤印が渋谷区郷土博物館・文学館です。
青印が吸江寺です。

