薩摩藩下屋敷跡(渋谷散歩⑧)
渋谷博物館・文学館の前あたりには幕末に薩摩藩下屋敷がありました。
現在は、薩摩藩下屋敷の面影を残すものは「常盤松」の石碑だけです。
下写真は、「常盤松」の石碑がある場所を写したものです。マンションの1階部分にあります。
「渋谷区史」によると薩摩藩下屋敷が渋谷に設置された経緯は次のようです。
薩摩藩下屋敷がある場所は、江戸時代初期の万治元年(1658)に大和柳本藩主織田源十郎秀一が拝領しました。
その後時代が下がり、江戸時代後期の文化5年に、越後村上藩内藤家の深川清住町にあった下屋敷と相対替で、この屋敷が内藤家の屋敷となりました。
この土地が、嘉永5年(1852)に相対替で薩摩藩の下屋敷となりました。
さらに、内藤家の土地の一部は、幕府に上知され三根山藩牧野家を経て大和芝村藩織田家の下屋敷となっていました。薩摩藩島津家はその土地も相対替で入手しました。
これで合計1万8千坪の広大な屋敷となりました。
薩摩藩が、ここに下屋敷を構えたのは、芝の屋敷が海岸近くにあるため、外国船が襲撃してきた際には危険にさらされるため、その危険を避けるためでした。
安政2年(1855)10月2日に、安政江戸地震が起き、三田藩邸、高輪屋敷、桜田屋敷も被害を受けました。一方、渋谷の下屋敷は、被害がほとんどなかったことから、翌日3日に奥はすべて渋谷に移ることになりました。
その引っ越した奥一同の中に、天璋院(篤姫)もいました。
天璋院(篤姫)は、家定に輿入れするために三田の藩邸に滞在していましたが、安政大地震に遭遇したため、渋谷の下屋敷に引っ越していました。
篤姫が輿入れしたのは、安政江戸地震が起きてから、約1年後の安政3年11月11日のことでした。
篤姫の輿入れの様子は宮尾登美子著「天璋院(篤姫)」には次のように描かれています。
『安政3年11月11日、その朝、これがおそらく見納めであろうと思われる、天球儀のある表書院で斉彬と篤姫は親子別れの盃ごとを執り行なった。
女子一たび嫁しては再び帰らずという古訓にのっとり、熨斗はすべて結び切り、二度と同じ動作を繰返さず、そして次の間に下って将軍名代で御台所お迎えの役、大奥総取締滝山との挨拶が交わされたのち、いよいよ行列は出発となる。
渋谷村から江戸城お広敷まで、先頭は滝山、続いて近衛家より母親役として下向した老女村岡、介添えの幾島のつぎに篤姫は朱塗鋲打ちの駕寵に乗り、その両脇に近衛家から篤姫付きとなった亀岡、花乃井が付従う。
当日この道筋にあたる諸大名には通達が出され、篤姫通行並びに諸道具送りが屋敷の前を通過するときには、熨斗目麻上下着用の家来、羽織着用の足軽等、禄高に応じて相当の人数を差出し、見物人を払い、土下座して見送るよう、固く指示があった。
この行列は陸続と続き、先頭が江戸城へ入ったあとでも、後尾はなお渋谷邸を出発しておらず、早朝から日没まで毎日毎日、人を送ったあとは調度品送りとなって、都合65日間続いたという。』
《常盤松の碑》
島津家下屋敷には常盤松と呼ばれる銘木がありました。その常盤松があったはことを示す嘉永6年に島津藩士が建立した「常盤松の碑」(下写真)があります。現在では、この常盤松の碑だけが、この辺りが薩摩藩下屋敷であったことを示す唯一の名残りとなってしまいました。
常盤松の名前の由来には二説あります。
一つは源義朝の側室であり義経の母である常盤御前が植えたからという説で、もう一つの説は世田谷城主吉良頼康の側室の常盤が植えたからという説です。
渋谷金王丸は義朝・頼朝に仕えていたので、源氏と深い関係のある常盤御前がこの地に来て松を植えたということになったのだろうが、最初は常緑の松として常盤の松という名前で呼ばれていたものが、常盤御前の名前が当てられたのではないかと渋谷区史は書いています。
この常盤松は樹齢400年ほどの巨木でしたが惜しくも太平洋戦争で燃えてしまったそうです。
現在は、後継樹が植えられています。(上写真)
この常盤松にちなんで、昔は、常盤松町という町名がありましたが、現在は、常盤松小学校の名前にその面影が残されています。
なお、常盤松之の碑設置場所の隣地は常陸宮邸ですが、昭和39年のご成婚以来の住居で、常陸宮邸の前には、皇太子明仁親王(当時)の御殿で、第二次世界大戦前までは東伏見宮邸でした。

