塙保己一の生涯(渋谷散歩⑩)
塙保己一史料館は塙保己一の業績を顕彰する役割も持っているようです。
史料館の玄関先には、塙保己一の銅像が設置されています。(下写真)
そこで、今日は、塙保己一の生涯を簡単に書いておきます。

塙保己一は、江戸時代中期の延享3年(1746)5月5日、武蔵国児玉郡保木野村(現在、埼玉県本庄市児玉町)に、父荻野宇兵衛、母きよの長男として生まれました。生まれつき丈夫な方ではなく、7歳の時、肝の病がもとで失明しました。
宝暦10年(1760)、15歳の時に江戸に出て、雨富須賀一検校の門人となり、鍼・灸・按摩、琴・三味線などの手ほどきを受けました。
しかし、いっこうに上達せず、一年たった時、絶望から自殺を決意しました。しかし、直前に思いとどまり、当初よりの大願である学問をしたい旨を雨富検校に打ち明けました。
雨富検校は、保己一の願いを許してくれました。それから保己一は一心に学問に打ちこみ、それにつれ、按摩の腕も上がり、18歳で衆分という位にあがりました。この時に、生まれ故郷の保木野村から保木一と名のりました。
安永4年(1775)に勾当に進んだのを機に、師匠雨富検校の苗字をもらい塙姓を名乗り、名も保己一と改めました。本名の荻野を名のらず塙を名のったのは、当時、名古屋に平家琵琶の名人荻野智一という検校がいたため、荻野が名乗れなかったという事情があります。
保己一は、中国の文選という書物に「己を保ちて百年を安んず」という言葉あり、それからとったと言われています。
安永8年(1779)34歳の時、『群書類従』の編纂をはじめました。この事業によってわが国の貴重書が散逸から免れさすこととなりました。
寛政5年、国史・律令の研究機関としての「和学講談所」の設立を幕府に願い出て許され、後に。林大学頭(述斎)の支配下におかれ、講談所は幕府の官学に準ずる機関となりました。
生涯をかけた『群書類従』は文政2年(1817)、72歳の時に完成しました。
文政4年(1819)2月には、盲人の最高位である総検校となりました。総検校に就任したものの就任後まもなくの文政4年9月12日になくなりました。享年76歳でした。
お墓は、四谷の愛染院にあります。お墓には「前総検校塙先生之墓」と刻まれています。(下写真)

塙保己一は、記憶力を養うため、毎日般若心経を100回読経、生涯で220万回読んだとも言われています。
また、現在使われている400字詰めの原稿用紙の形式は、塙保己一が「群書類聚」の出版事業を手掛ける際に考案されたものと言われています。

