7代目団十郎ゆかりの延命院旧跡(成田山新勝寺②)
成田のお不動様にお参りしたのは、成田のお不動様の御利益をいただくこととが一番の目的でしたが、それとともに、市川団十郎のゆかりの地を訪ねることも目的でした。
先週3月16日の文京学院大学で「江戸の刑罰」についてお話しました。その中で江戸時代の追放刑についてもお話しました。
追放刑というのは、ある地域から追放して、その地域の居住できなくなるようにする刑です。
追放刑は、門前払いから遠島まで8段階の刑があります。
その中で、江戸十里四方追放という刑があります。その刑に処せられた有名人が7代目市川団十郎でした。
そして、江戸十里四方追放の刑を受けた7代目団十郎が身を寄せたのが成田山新勝寺の塔頭延命院でした。
この延命院は、現在は、成田に残っていませんが、その旧跡は残されているというので、そこを訪ねることも今回の成田山お参りの目的の一つでした。
7代目団十郎は、10歳で団十郎を襲名し、のちに名人とうたわれました。
今でも演じられる歌舞伎十八番は、7代目団十郎が定めたものです。
この市川団十郎は、老中水野忠邦が始めた天保の改革により、その豪奢ぶりが咎められました。
当時の南町奉行鳥居耀蔵が呼び出された団十郎は、天保13年(1842)、2か月間手鎖の上家主預かりとなり、6月22日に江戸十里四方追放の刑に処せられました。
江戸十里四方追放と云うのは、日本橋を中心に五里四方の地域から追放する刑で、日本橋から五里圏内には、住むことができませんでした。
そこで、6月25日、7代目団十郎は 江戸を発ち、成田山新勝寺の塔頭である延命院に身を寄せました。
延命院は、成田駅から成田山新勝寺に向かう表参道の坂を下りきった辺りにありましたが、延命院は、明治年間に横浜に移転して、現在は横浜別院となっています。
そのため、現在、延命院は成田にはなくて、延命院があった場所には 「延命院旧跡」という標柱が建てられています。(最上段写真)
表参道を下っていくと右手に鉄砲漬で有名な「江戸久」があります。その先の「お食事処ひしや」との間に路地があり、そこに「延命院旧跡」の標柱があります。下写真が標柱がある場所の全体像です。写真右手が「江戸久」、左手が「ひしや」です。
その標柱を右手に入る路地の先に木戸があります。(下写真)
その木戸の先に、延命院があったそうです。
7代目団十郎は、成田山新勝寺の延命院には、半年ほど住んでいて、その後 駿府に移り、そして大坂に向かいました。
そして、嘉永2年(1849)12月に恩赦により追放が解除されました。
赤印が延命院旧跡の標柱です。
青印が成田山新勝寺の総門です。