菊屋の鰻重(成田山新勝寺③)
成田山新勝寺での御護摩祈祷をしていただいたのは11時でした。御護摩祈祷が終了するとお昼時ですので、表参道の南側にある「菊屋」で鰻を食べました。下写真は菊屋を斜めから撮ったものです。なお、表参道は下り坂になっていて、坂下方向が成田山新勝寺です。

成田は、鰻が名物で鰻のお店が60以上もあるそうです。また、名店と呼ばれる店も数多くあって、どれを選ぶか迷うほどです。
そんな中で、江戸時代から続く「菊屋」を選びました。(下写真は菊屋正面からの写真です)

「菊屋」は、成田山新勝寺の門前で煮売屋をしていました。天保年間(1830~1844)に残された文書に、成田山門前の煮売屋「菊屋」として名が記されているそうですので、少なくとも 170年以上前から営業していることになる老舗です。
屋号の「菊屋」は、新勝寺より拝領した菊の御紋に由来しているそうです。
お店でいただいた、明治40年頃の地図には、現在地に「菊屋名物店」とありますので、明治時代後半には、既に現在地で営業していたということになります。
なお、「菊屋」の隣は、店先で鰻をさばいていることで有名な「川豊」ですが、「川豊」は、明治40年頃の地図には載っていませんでした。
また、建物は明治に建てられてものだそうですが、店内はあまり古さを感じることはありませんでした。それだけ手入れが行き届いているということでしょう。(下写真店内)

「菊屋」では、懐石料理もあるそうですが、鰻重を頼みました。鰻重には3800円の鰻重と4500円の国産鰻重があります。鰻重は台湾産の鰻を使っているので、鰻重のほうが安いとのことでしたが、国産鰻重をお願いしました。
しばらくすると鰻重が運ばれましたので、早速いただきました。

鰻はふっくらとしていて大変やわらかでした。タレは甘めのタレですが程よい甘さで、鰻とベストマッチでした。
鰻は大好きですので、あちこちの鰻重を食べていますが、「菊屋」の鰻重はトップクラスの味でした。
成田には数多く名店があるので、菊屋を訪ねる前には、次の機会は別のお店の鰻重を食べてみようと思っていました。しかし、実際に食べてみて次回も菊屋にしようと思いました。
店内には福沢諭吉の自筆の書が架けられていました。
「独立自尊」と書かれています。(下写真)

この書の由来について、店長の中里さんが丁寧に教えてくださいました。
中里店長さんのお話では、福沢諭吉と成田は、明治に起きた長沼事件という事件を通じて深い関係があるということでした。 長沼事件については後述しましたが、長沼という沼の占有権をめぐっておきた事件に対して福澤諭吉は大変な支援をしました。そこで、長沼事件を支援してくれた福沢諭吉には成田の人々は特別の感慨をもっていて、福澤諭吉と成田の人々の交流が行なわれていたそうです。
そうした中で、福沢諭吉が成田に来て菊屋に寄った際に、当時の御主人が揮毫をお願いして書いてもらったものだそうです。 中里店長さん、丁寧な語説明ありがとうございました。
長沼事件とは次のような事件です。
現在は成田市となっている千葉県埴生郡長沼村にあった「長沼」は、江戸時代、長沼村が幕府に一定の年貢を納めることで、沼の占有権を得、生活の糧のために沼を利用してきましたが、明治になって、周辺村落15カ村を含んだ入会地に変更されることになり、長沼村は大いに困窮することになってしまいました。長沼の人々は県庁に嘆願しても聞き入れてもらえませんでした。その時、たまたま『学問のすゝめ』を読んだ村代表の小川武平が明治7年、福澤諭吉を訪ね、援助を求めました。話を聞いた福澤諭吉は、当時の柴原和県令宛に直々に手紙を出したり、小川武平を励ますなど支援を行い、ついに明治33年には長沼は長沼村に払い下げられ、所有権は回復しました。
また、事件解決後、福澤諭吉は、教育普及のため、小学校建設のために500円を寄付し、これを元手に長沼小学校が建てられたそうです。
しかし、福澤諭吉は事件が解決した翌年の明治34年に亡くなってしまいました。そこで、福澤諭吉に対する感謝の念をいただいていた長沼の人々は、事件が解決した3月29日を記念日として村を挙げてお祭りが行われました。この日、各家では福澤諭吉の写真を床の間に飾っていたそうです。
現在、長沼小学校は廃校となりましたが、学校跡地には長沼保育園が建ち、その一室が「福澤諭吉記念子ども館」として開放されているそうです。
また、長沼事件を支援してくれた福沢諭吉に対する長沼地区の感謝の気持ちは現在まで続いていて、福澤家は福澤諭吉の曾孫の代になっていますが、福澤家に年3回長沼地区の人々がお礼に訪れているそうです。
赤印が菊屋です。緑印が、前回紹介した延命院旧跡です。
青印は成田山新勝寺の総門です。

