成田山新勝寺の創建(成田山新勝寺④)
今日は、成田山新勝寺が創建された縁起について書いていきます。
御存知の方が多いと思いますが、成田山新勝寺の縁起は、平将門の乱と大きな関係があります。
平将門は、天慶2年(939)、京の朝廷に対して反乱をお越し、自ら新皇と名乗りました。
これに驚いた朝廷は、征東大将軍を任命し平将門の討伐を命じました。その一方で朱雀天皇は寛朝大僧正(かんちょう、またはかんじょうとも)に、弘法大師空海みずからが彫った不動明王像とともに関東に下り、乱を鎮めるようにと命じます。
勅命を受けた寛朝大僧正は不動明王像を奉持して京都を出発し、大坂から船に乗り、房総半島九十九里浜の一画にある尾垂ヶ浜に上陸します。
そして公津が原に到着し、そこに不動明王像をお祀りして御護摩を焚いて、平将門の乱が終息し平和が戻るよう祈願しました。
そして21日間祈祷を続け、結願の日に平将門が倒され、平将門の乱は終息しました。
無事乱が収まったため、寛朝大僧正は都へ帰ろうとしました。ところが、不動明王像は磐石のごとく動きませんでした。そして、不動明王から、この地に留まって、悪しきをこらしめ善きものを助けるというお告げがありました。
そうしたことから、寛朝大僧正のみ京都に戻り、不動明王像は成田の地に留まることになりました。
そして、朱雀天皇より「新たに勝つ」という意味を持つ新勝寺の寺号を賜り勅願所となりました。
こうして成田山新勝寺が開山されたのです。
成田山新勝寺開山の寛朝大僧正は、宇多天皇の孫にあたります。
11歳の時に出家し、仁和寺・東大寺・西寺の別当、東寺の長者を歴任し、寛和2年(986)に大僧正となりました。大僧正は、それまで、行基菩薩・慈恵大師良源だけに賜ったもので、寛朝大僧正は3人目でした。そして、真言宗では初の大僧正でした。

