和学講談所(塙保己一記念館③)
塙保己一の優れた業績で、「群書類従」と並ぶものが和学講談所の開設です。
塙保己一記念館では、和学講談所についても詳しく説明しています。
塙保己一は、寛政5年(1793)に和学講談所の設立を幕府に申請しました。するとすぐに許可がでて、麹町六番町に用地が与えられ建設しました。
寛政7年には、和学講談所は幕府直轄の学校となり、林大学頭の支配下に属しました。
和学講談所は、松平定信によって「温古堂」となづけられました。和学講談所の玄関には、水戸藩主徳川治保によって書かれ、屋代弘賢によって彫られた額が掲げられていました。下写真がその額です。
和学講談所が設置された場所は、裏六番町の小普請組小泉新三郎の上地600坪のうちの300坪でした。
その後、文化元年(1804)に場所替えを願い出たて、文化2年には、表六番町の土地840坪を拝領し、そこに移転をしました。
塙保己一記念館には、和学講談所の模型が展示されていました。(下写真)
和学講談所には、天満宮も建てられました。記念館には、その天満宮にかかっていた額や天満宮の軒丸瓦も展示されています。

和学講談所の機能は次の四つありました。
1、「古事記」や「六国史」などの日本古来の歴史書を読み教えること
2、文献資料を調査収集して書写・校訂を行うこと
3、幕府の要求に応じて、資料の提出、応答、原案の起草などを行うこと
4、「群書類従」などの編纂や刊行などの出版事業を行うこと
つまり教育事業や出版事業だけでなく、幕府の諮問に対する答申機能もありました。
私が特に注目したのは、和学講談所は、幕府からさまざまな諮問に対して、過去の文書などを調査して回答していたことです。
その代表的な例が、小笠原諸島の帰属問題です。
幕末になり、欧米各国が、日本周辺海域に出没するようになると、小笠原諸島がどこに帰属するかが問題となりました。
その際に、塙忠宝は、幕府の求めに応じて、和学講談所に収蔵された資料の中から「辰巳無人島訴状并口上留書」という文書を発見し、その文書には小笠原諸島は文禄2年、小笠原民部少輔貞頼(小笠原貞頼)が高麗より帰朝の際に発見した島であるということが書いてありました。
この文書があることを幕府に回答し、これにより、小笠原諸島が明治9年、日本の領土であると国際的に認められました。
現在、小笠原諸島が日本の領土であるのは、塙保己一と塙保忠宝によるといっても過言ではないと思います。
こうした功績をある和学講談所は、文政4年(1821)塙保己一が亡くなった後は息子の忠宝(ただとみ)が継ぎ、文久2年(1862)に忠宝がなくなった後はその子忠韻(ただつぐ)が継いでともに講習、編纂事業を継続していきました。
しかし、徳川幕府に終焉を迎えたことにより、明治元年6月に廃止されました。


