塙保己一の生家(塙保己一記念館⑤)
塙保己一記念館から車で少し行った場所に塙保己一が生まれた家が残されています。塙保己一旧宅というタイトルもありますが、ここではあえて塙保己一の生家としておきます。

塙保己一は、塙姓を名乗っていますが、これは師匠であった雨冨検校の苗字です。本来の姓は荻野姓です。
塙保己一は、延享三年(1746)、武蔵国児玉郡保木野村(現在の本庄市児玉町保木野)で荻野宇兵衛の子供として生まれました。しかし7歳の時に失明し、15歳のとき江戸へ出て、雨宮検校の弟子になりました。
その塙保己一が生まれ育って家が、本庄市児玉町保木間に残されています。
塙保己一記念館から、車で5分ぐらいのところです。記念館からのルートは記念館で確認したほうがよいと思います。
塙保己一は長男として生まれましたが、江戸に出たため生家は弟卯右衛門が継ぎました。現在も残されている家は、その弟卯右衛門のご子孫が住んでいます。生家の西側に牛舎がありましたので、おそらく酪農を営んでいるのではないかと思います。こうした状況のため、生家の敷地内に入ることはできませんが、外から見ることができます。
外といっても、生家の正面に下のような説明板が設置されていますので、生家の正面から生家の様子が見られます。

説明板によれば、母屋は。塙保己一の父荻野卯兵衛の代に建てられたと伝えられていて、保己一が生まれた延享3年(1746)より幾分遡るものだそうです。
生家は、茅葺き二階建ての入母屋造りで、向かって左側に田字形の部屋、右側に土間、馬屋(現在は子供部屋)等があり、後世に若干の増築や補修されていますが、当時の姿をよく残しているそうです。
よく400年近くの建物が残されたものだと驚くとともに、塙保己一の弟のご子孫がよく維持してくれていると感動しました。下写真が正面からみた生家です。

生家の裏手西側にある塙保己一公園の一画に、塙保己一の墓があります。(下写真)

塙保己一の墓は、東京の四谷の愛染院にありますが、もとは同じ四谷の安楽寺に埋葬されました。
本庄市の生家近くにあるお墓は、保己一が埋葬された東京四谷の安楽寺の墳墓の土を生家の荻野家が持ち帰って先祖累代の墓地に碑を建てて慰霊したのが始まりで、その後、明治44年に、一度移転した際、塙保己一の法衣の一部が瓶に納められてお墓の底に埋設されました。
保己一のお墓は平成24年に現在地に移転されましたが、その工事の際に、墓碑の下から瓶が出土しました。埋設されていた瓶は割れており、中には土が詰まっていて法衣は確認できませんでした。そこで、関係者が協議した上で、瓶は修復され菩提寺である實相寺に納められ、瓶内の土は三等分して、新墓所、荻野家の墓地、菩提寺實相寺の瓶に納めることになり、新しい墓所へ納める土は白布に包み、石の容器に密閉して墓碑の真下に埋められました。
こうした経緯が墓碑そばの石碑に説明されています。
赤印が塙保己一生家です。 青印が塙保己一記念館です。

