広村堤防の築堤(濱口梧陵③)
浜口梧陵について書き始めましたが、先週1週間は、別の記事を3回続けて書いたため、少し間が空きました。
今日から、また、濱口梧陵について書き始めます。
前回は、嘉永7年(1854)11月5日、安政南海地震によって発生した大津波から浜口梧陵が「稲むらの火」をともして村民を救った話までしました。
今日は、濱口梧陵が築いて広村堤防について書いていきます。下写真は、広川町立耐久中学校正門近くから撮った広村堤防です。

安政南海地震の時に広村の被害の概略は次のようになっていました。
1、流され死んだ人 30人(男12人、女18人)
2、家屋 ①流失家屋125軒、②全壊家屋10軒、③半壊家屋46軒、④浸水・大小破損の家屋 158軒、以上家屋の被害合計339軒
広村は、当時300余軒の戸数だったと推測されていますので、村は壊滅状態になってしましました。
当時の広村では、50年から100年毎に必ず津波があるとの説を信じられていました。
天正13年(1585)宝永4年(1707)の被害年から数えると、嘉永7年(1854 )もこの説にあてはまるので、家財を失い肉親とも離れ、恐怖に襲われた村民の多くは、大津波に襲われたため、他に移住しようと考えたり、復興の意気を失っていました。
こうした村民の様子を見た濱口梧陵は、当面の措置として、まず家屋50軒を新築して、極貧者には無料で居住させ、多少の資力ある人には10年間の年賦で貸与し、農具や漁具も配分し、商人には応分の資本を融通しました。
さらに根本的に津波から広村を守るため、堅固な防波堤の築造を考え、親戚の濱口吉右衛門の賛同を得て、紀州藩に対して工事着工の許可を申請しました。
新しく築く堤防は、これまで古くから存在した約一間(1.8メートル)の石垣の背後に、高さ二間半(4.5メートル)、根幅11間(20メートル)、上幅4間(7.2メートル)、延長五百間(900メートル)の築堤を行おうとしたものです。
しかも、その口上書には、工事のために、濱口梧陵が私財を投じるとの旨も書かれていました。
濱口梧陵が、この計画を立てたのは、防災堤防を建設して村民を津波から守ると同時に当面の村民の生活も支援するために、堤防工事を始めたのでした。
下写真は、濱口梧陵記念館で展示されている工事の様子を描いたジオラマです。

このようにして、広村永遠の安全を期そうとした堤防工事は、濱口梧陵に作った見積書によれば、人夫合計56,736人、費用合計94貫344匁(1572両)とあったそうでした。
工事は、安政2年(1855)2月に起され、日々これに従事するもの4~500人、老若男女を問わず、特に一日の労働が終わればその都度その日の日当を支払ったので、村民はとても喜んだそうです。
また農繁期となれば一時工事を中止し、冬斯の閑散期を見て再びこれを継続しました。
こうして、着工後約4年たった安政5年(1858)12月に築堤の全部が完成しました。
最初の予定では、広川堤まで900メートル(500間)の計画でしたが、その後、幕末となり、世の中で不穏な動きが強まってきたので、一旦、工事を中止し、完成した長さは670メートルでした。
この広村堤防は、現在も、広川町に残されています。堤防の基底の幅は約20メートル、高さ約5メートルとなっています。堤防の上を通行できるようになっています。(下写真)

濱口梧陵が、植えた松林は、現在は2代目だそうですが、整然と植えられていて、大変見事な姿を現在も見せています。


