濱口梧陵の生涯(濱口梧陵④)
今日は、濱口梧陵の生涯について書いてみます。
濱口梧陵は、文政3年(1820)に、銚子でヤマサ醤油を営む濱口儀兵衛家の分家である濱口七右衛門の長男として生まれました。(下写真は耐久高等学校にある濱口梧陵の銅像です)

12歳で本家(濱口儀兵衛家)の養子となりました。養父となった6代目濱口儀兵衛は実の叔父でした。その頃まだ存命であった5代目儀兵衛はお祖父さんでした。
本家の養子となると、銚子に向かい、丁稚と同じように家業に励みました。
嘉永5年(1852)、濱口梧陵が33歳の時、親族の濱口吉右衛門らとともに広村に稽古場「耐久舎」を開設して後進の育成を図りました。
耐久舎は、その後の継続し、現在では、和歌山県立耐久高等学校へ発展しています。耐久舍の建物は、広川町立耐久中学校の敷地内に残されています。(下写真)

また、耐久中学校と耐久高等学校には、濱口梧陵の銅像が建てられていて、現在も子供たちを見守っています。(最上段が、耐久高等学校の銅像、下が耐久中学校の銅像)

嘉永6年(1853)家督を相続し、七代目濱口儀兵衛を名のり、醤油醸造の本業に力を注ぎました。
そして、濱口梧陵が家督を相続した翌年、安政南海地震によって起きた大津波が広村を襲い、その後、広村堤防を建設に尽力しました。その功績については、既に書いた通りです。
こうして家業であるヤマサ醤油の発展に取り組み、さらに社会奉仕にも尽力する中で、明治になると、和歌山藩の藩政改革に参画しています。
明治元年1月に紀州藩の勘定奉行に抜擢され、さらに和歌山藩権大参事となり、藩政運営の中心として活躍しました。
こうした和歌山での濱口梧陵の活躍は中央政府の知るところとなり、明治4年には、大久保利通の推挙で初代駅逓頭(えきていのかみ)(のちの郵政大臣に相当)に就任しました。
しかし、わずか1週間で辞職しています。これは、後に郵便制度の父と呼ばれる前島密との意見の食い違いによるという説が有力です。
辞職後、和歌山県大参事に任命され、明治13年(1880)には初代和歌山県会議長に、当時の和歌山県知事のたっての願いにより就任しました。明治17年には、すべての公職をしりぞき、念願の海外渡航に出向きました。下写真は、濱口梧陵記念館に展示されていた、ナイアガラの滝を背景に撮られた写真をもとに描かれた「濱口梧陵とナイアガラ瀑布」という絵です。

しかし、ニューヨークに滞在中、体調を崩し、明治18年4月21日、ニューヨークで帰らぬ人となりました。
遺体は防腐剤で保護され、船で横浜・神戸を経由し広村に帰り、6月14日広村で葬儀が行われました。葬儀には4千人もの人々が会葬したといいます。当時、未曽有の大葬儀でした(いや現在でもそうでしょう)。浜口梧陵の偉大さを表していると思います。

浜口梧陵のお墓は、広川町の淡濃山(たんのうさん)の東南麓の御坊湯浅線という道路の脇にあり、昭和13年に国の史跡に指定されています。(上写真)

入口には、「史跡浜口梧陵墓」と刻まれた石柱と説明板が設置されていて、墓所は、三方を塀で仕切られ後方に切り石積みの基壇の手前に濱口梧陵の墓碑が立っています。上写真左奥の扉の中が浜口梧陵の墓所です。
赤印が濱口梧陵の墓です。青印が、耐久中学校です。ピンク印が「稲むらの火の館」です。

