蘭学・医学への貢献(濱口梧陵⑤)
濱口梧陵といえば、「稲むらの火」と広村堤防の築堤が大きく取り上げられていますが、濱口梧陵の功績で、見落とすことができないと思っていることがあります。それが、蘭学・医学への貢献です。
濱口梧陵は、ふとした縁で、蘭方医三宅艮斎と知り合います。
三宅艮斎は、肥前国島原に生まれ、14歳の時に長崎に出て、蘭方医楢林栄建から医学を学び、天保9年(1838)に佐藤泰然を頼り、江戸で開業しました。しかし、その頃、漢方医の圧力により、蘭方医の扱える医療分野が外科と眼科に限定されたことから、天保12年(1841)に銚子に移り開業しました。銚子は、ヤマサ醤油の本拠地であり、これにより、濱口梧陵は三宅艮斎と知り合いました。
その後、三宅艮斎との関係は急速に強まり、師とも友ともいえる強い関係となりました。
安政5年(1858)に、伊東玄朴や大槻俊斎ららが呼びかけ、蘭学者たちが一致協力して、神田お玉ヶ池の川路聖謨の屋敷に種痘所を開設しました。これがお玉が池種痘所です。この開設には三宅艮斎も多大な尽力をしていました。 下写真はお玉が池種痘所跡の記念碑です。

お玉ヶ池種痘所が、開設後半年後に近くで起きた火事に類焼して焼失してしまいました。種痘所の再建は急務でしたが、なかなか資金が集まらず、蘭方医たち苦労していました。そのとき、濱口梧陵は300両の寄付をしました。当然、三宅艮斎との交友があったからだと思われます。
その他の資金拠出もあり、種痘所は場所を替えて再建されました。さらに、濱口梧陵は、図書や機器類の購入資金として、400両を寄付しています。
また、銚子で開業していた関寛斎をお玉ヶ池種痘所に赴かせ、伊東玄朴、三宅艮斎の下で種痘の方法を学ばせました。関寛斎は銚子に戻り、コレラの予防・拡大防止に大きな業績をあげました。
関寛斎は現在の千葉県東金市で生まれ、佐倉の佐藤泰然に入門し、さらに林洞海、三宅艮斎に学びました。一旦、故郷に帰り開業した後、安政3年(1856)に銚子に移り開業しました。そこで、濱口梧陵は、関寛斎を知り、お玉ヶ池種痘所に派遣したのでした。
さらに、関寛斎は、万延1年(1860)に長崎に留学、蘭医ポンペに就いて西洋医学を学んでいます。この長崎遊学は濱口梧陵の資金援助があり実現したものです。
また、濱口梧陵は佐久間象山の塾にも入門して西洋事情を習得していました。
こうした背景もあると思われますが、勝海舟と知り合い、生涯の友となっています。
広川町教育委員会発行の「濱口梧陵の生涯」によれば、濱口梧陵と勝海舟の出会いは、日本橋の本屋で渋田利右衛門が濱口梧陵に勝海舟を紹介したことに始まりました。当時、渋田利右衛門は、貧しいながらも本屋の店頭で日々懸命に読書をし続けていた若く才能のある勝海舟を見出しており、自ら交際を求めて支援をしていましたが、病でまもなく死ぬ自分に代わって海舟の志を支えてやって欲しいと濱口梧陵に頼んだのでした。
渋田利右衛門にあらかじめ勝海舟の人柄を聞いていた濱口梧陵でしたが、実際に勝海舟に会って話してみると、いかにもざっくばらんで見識のある勝海舟に大きな魅力を感じました。そして、お互いに尊敬しあい、生涯の友となりました。
後に勝海舟が咸臨丸で遣米使節に随行した際には、濱口梧陵は勝海舟から渡米を勧められるほどの仲になっています。
もっとも、濱口梧陵は、この時は、渡米を断っています。
さて、最後に、広村堤防に建設されている「感恩の碑」の紹介がしてありませんでしたので、最後に、その紹介をしておきます。

「感恩の碑」は、広村堤防中央部の海側の波除石垣の上に建てられています。
私財を投じて堤防を築いた浜口梧陵の偉業とその徳を称えたもので、昭和8年12月に建立されました。
赤印が、「感恩の碑」です。広村堤防のちょうど中間にあります。
青印が、稲むらの火の館です。

