中川船番所資料館(新江戸百景巡り②)
一之江名主屋敷は都営新宿線の瑞江駅が最寄駅ですので、同じ都営新宿線の東大島駅が最寄駅である中川船番所資料館を今日はご案内します。
中川船番所資料館は「新江戸百景巡り」では、新江戸百景にカウントされていませんが、「江戸が分る博物館・資料館」の一つとして紹介されています。「新江戸百景巡り」のP55を参照してください。
中川船番所資料館は、都営新宿線東大島駅から徒歩5分の旧中川沿いにあります。東大島駅の南側駅前に大島小松川公園があり、その東側の脇を歩いていくと下写真の景色が見えてきますので、容易に訪ねることができます。写真手前右側が公園です。
資料館の名前は「中川船番所」となっていますが、常設展示目録では「中川番所」と書かれていますので、以下、中川番所としておきます。
中川番所は中川関所ともよばれ、河川交通路上における江戸の出入り口にあたる小名木川を通行する物資や人を取り締まるために設けられました。
中川船番所資料館は、その中川番所を中心に、中川や小名木川の水運に関する資料を調査収集保存し、その成果を展示するために、江東区が平成15年に建設したものです。下写真が中川船番所資料館の全体写真です。
中川番所は小名木川が中川へ流入する中川口の北岸、昔の小名木村に設置されていました。中川船番所資料館からは南に約30メートル行った小名木川沿いに中川番所が設置されていました。番所跡には、江東区が設置した説明板があります。(下写真)
中川番所の説明板近くから撮った小名木川と旧中川の合流点が下写真です。右手が小名木川で、左手から奥に流れているのが旧中川です。この写真の右手の小名木川沿いに中川番所がありました。
なお、江戸時代に中川と呼ばれていた川は、昭和6年に中川放水路(現中川)が完成したことにより、旧中川と呼ばれるようになりました。
中川番所は、中川対岸の船堀川からは江戸川・利根川水系へとつながり、江戸と関東各地さらには信越・東北方面を結ぶ流通網の要として、ここを通過する船の積荷と人を改めました。下写真が中川番所の復元したもので、中川船番所資料館に展示されています。
中川番所は、寛文元年(1661)6月、設置されました。それまでは、関所の機能は、小名木川が隅田川と合流する万年橋近くにあった深川番所が担当していました。下写真が、深川番所の跡に建てられた江東区教育委員会の説明板です。説明板には、深川番所跡でなく、川船番所跡と書かれています。
明暦の大火後、幕府は江戸の市街地の拡張・整備がおこないましたが、その一環として本所深川地域の開発がおこなわれ、本所深川地域は江戸市中に組み込まれたことから、万年橋での深川番所の機能を中川口へ移転することになり、中川番所が設置されました。敷地面積は東西26間余、南北17間余ありました。
中川番所は深川番所の機能を受け継ぐとともに、江戸時代中期以降、江戸へ運ばれる荷物の品目と数量を把握する機能も担うようになり、海上交通路上における浦賀番所とともに重要な機能を果たしました。
中川番所では、船の通行、女性の通行、鉄砲をはじめとした武具の取締り、そして物資の出入りの取締りが行なわれました。
夜間の船の通行は禁止され、驚くことに女性の通行は絶対禁止だったそうです。従って、小林一茶は同行の女性が中川番所を通過できず苦労した記録も残っているそうです。
こうした中川番所の長官は、中川番と呼ばれました。この中川番は、3千石から8千石の高禄の旗本が勤めていました。こんな大身旗本が中川番を勤めていたということは意外でしたが、このような大身旗本が任命されていたということは、中川番所の重要性を表しているのではないかと思います。
中川船番所資料館の東側の中川沿いには、「旧中川・川の駅」が設置されています。観光船や防災船の船着場などとして活用されています。写真中央にあるスロープから、水陸両用バスが、旧中川に出入りするそうです。
赤印が中川船番所資料館です。