江東区芭蕉記念館(新江戸百景めぐり⑤)
芭蕉稲荷神社から万年橋の通りを北に真っ直ぐ歩いていくと江東区芭蕉記念館があります。芭蕉記念館自体は、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)記載の新江戸百景の中にカウントされていませんが、『新江戸百景めぐり』のP154に紹介されていますので、今日は、江東区芭蕉記念館をご案内します。
芭蕉記念館は、深川が芭蕉ゆかりの地であるため、芭蕉関係の資料を展示するために昭和56年に開館しました。
最寄駅は都営地下鉄新宿線の森下駅でA1出口から徒歩で約7分です。芭蕉記念館に直接行くときは森下駅からいくのがよいと思います。
入口には、芭蕉の名前のもととなっている芭蕉が植えてあります。(下写真)
1階が受付となっていて、2階、3階が展示室となっています。展示スペースは2階展示室のほうが圧倒的に広いので、展示は2階がメインということになると思います。下写真は2階展示室の様子です。
現在、そこで、「芭蕉の肖像・俳人の肖像」という企画展を行なっています。
展示期間が4月25日から10月27日までの長期の企画展ですので、ご興味のある方は見に行かれるとよいと思います。
この企画展では、江戸時代の多くの画家が描いた芭蕉の肖像画が展示されていますが、それらの中に英一蝶、小川破笠、与謝野蕪村、渡辺崋山、蠣崎波響(かきざき-はきょう)などの有名な画家が描いた芭蕉の肖像画も展示されています。
芭蕉に興味がある人だけでなく、江戸時代の画家に興味のある人にとっても一見の価値があると私は感じました。そこで前述の有名画家の作品を紹介します。なお、写真撮影は特に制限はありませんでした。
英一蝶(はなぶさいっちょう)
英一蝶は、京都に生まれました。江戸に出て狩野安信に師事しましたが、後狩野派から離れて、一蝶派の祖となります。俳諧を松尾芭蕉に学んで暁雲と号し、宝井其角とも交流がありました。初め多賀朝湖と称しまし「たが、幕府の怒りに触れて伊豆三宅島に流され、赦免後、英一蝶と改名しました。深川が製作活動の拠点であり、晩年も深川で過ごしています。展示されている作品は「芭蕉と柳図」で「奥の細道」での場面を書いているものだそうです。
小川破笠(おがわはりつ)
小川破笠は、伊勢に生まれ、江戸に出て、俳諧をはじめ福田露言に学んだ後芭蕉に学び、さらに、英一蝶に絵を学びました。小川破笠は、蒔絵・象嵌は優れていて、「破笠細工」とよばれる独特の蒔絵をつくりあげました。小川破笠は芭蕉を深く尊敬していて数多くの芭蕉像を残しているそうです。展示されている作品は「いかめしき句 芭蕉座像図」です。.
与謝野蕪村
与謝野蕪村の名前はご存知の方が多いと思います。
芭蕉を深く尊敬し、蕉風復興運動を進めました。
展示されている作品は、「芭蕉座像像」で、多くの皆さんが見たことがあると思います。座像の上に書かれている文字は、全て芭蕉の句です。
渡辺崋山
渡辺崋山も有名です。田原藩の家老の時に、蛮社の獄で投獄され、地元蟄居の沙汰がくだり蟄居していた三河国田原で自刃したことで有名ですが、画家としても大変有名で、崋山が描いた「鷹見泉石像」は国宝となっています。
渡辺崋山は、芭蕉のほか、其角など6人の肖像画を描いているそうですが、展示されていたのは、其角(下写真)、嵐雪、支考、許六で、芭蕉の肖像画はありませんでした。
蠣崎波響(かきざき-はきょう)
蠣崎波響は、松前藩の家老です。松前藩主松前資広(すけひろ)の5男として生まれ、家老の蠣崎家の養子となりました。江戸で宋紫石(そうしせき)などに学んだ後、京に上り円山応挙に師事しました。
松前藩は、文化4(1807)年、陸奥梁川に転封されましたが、蠣崎波響は家老として藩主の松前復帰につとめ、文政4(1821)年復領にこぎつけました。
波響の代表作として27歳のときアイヌの首長を描いた「夷酋列像(いしゅうれつぞう)」があります。展示されている作品は、「芭蕉と二哲の図」で、旅姿の芭蕉、それに双璧と称された其角と嵐雪の二哲を描いたものです。
こうした芭蕉の肖像画のほかに、今年がちょうど「おくのほそ道」に旅立って330年になる節目の年ですので、その記念として、紀行文なども展示されています。
芭蕉記念館の庭園には芭蕉堂と3つの句碑がありますので、それらも紹介しておきます。
芭蕉堂は、芭蕉の250回忌にあたる昭和18年に芭蕉庵跡(芭蕉稲荷神社)に再建されたものです。石造りであるため、昭和20年の東京大空襲ででは焼失を免れました。
記念館入口近くにある句碑が、奥の細道にある「草の戸も住替る代ぞひなの家」の句碑です。祈念館に入るときにすぐきがつくと思います。
上で紹介した芭蕉堂の手前にあるのが、「ふる池や 蛙飛びこむ 水の音」の句碑です。
芭蕉堂の右奥にある、小さな句碑が、先日紹介した小名木川五本松で詠んだ「川上とこの川しもや 月の友」の句碑です。
【芭蕉庵の絵】
江戸名所図会には、芭蕉庵のことが「芭蕉庵の旧址」として書かれていて、下写真の絵が芭蕉庵として描かれています。
芭蕉庵というと、この構図をよくみると思います。前述の企画展では、この構図で芭蕉庵を描いた最初のものが展示されています。小林風徳が編集した「芭蕉文集」地之部という書物の挿絵として描かれています。まさに江戸名所図会と同じ構図です。
【芭蕉の生家】
芭蕉は、寛永21年(1644)、現在の伊賀市で生まれました。伊賀市には現在も芭蕉の生家が残されています。昨年暮に伊賀市に旅行した際に訪ねていますので、簡単に紹介します。下写真が生家で伊賀市指定文化財ですが、耐震等工事などのため、令和3年3月31日(予定)まで休館となっています。
芭蕉は、士分待遇の農家の出身で、両親と6人の兄弟の中で育ちました。大きくなった芭蕉は、藤堂藩伊賀付の侍大将藤堂新七郎家に奉公に出て嫡男の良忠に仕えることとなりました。良忠の縁で、京都の北村季吟に俳諧を学びました。しかし、良忠が亡くなり、致仕した芭蕉は、俳諧師として生きるために江戸へ出ます。父の死後、当主は兄となっていましたが、江戸へ出た後も幾度ともなく帰省しました。自筆の遺言状も実家の兄半左衛門宛に送られているそうです。下写真の奥に写っているのは、生家の裏の道路沿いにある句碑で「ふるさとや 臍の緒に泣 年の暮」の句が刻まれています。
赤印が、江東区芭蕉記念館です。
青印が、芭蕉稲荷神社です。