新大橋(新江戸百景めぐり⑥)
芭蕉記念館の近くに新大橋があります。
新大橋も、新江戸百景の一つに挙げられていて、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)第19景P66に紹介されています。
現在の新大橋は、都営地下鉄新宿線「森下駅」A1出口から約5分のところにあります。(下写真)

しかし、もともとの新大橋は、現在の新大橋が架けられている地点より約250mほど下流に架けられていました。
万年橋から芭蕉記念館に向かう万年橋通りの西側歩道に「旧新大橋跡」と刻まれた石柱が建てられています。(下写真)

新大橋は、隅田川に架かる3番目の橋として元禄6年(1683)に架けられました。この橋の架設により江戸市中との交通が便利になり、深川の発展に大きく貢献しました。
新大橋という名前は、万治2年に架けられた両国橋が、当初は「大橋」と呼ばれていたため、「新しい大橋」という意味でつけられました。
松尾芭蕉の住まいつまり芭蕉庵近くに新大橋が架けられたため、芭蕉は期待を込めて「初雪や かけかかりたる 橋の上」と詠み、竣工した後は、新大橋に感謝して「ありがたや いただいて踏 橋の霜」と詠んでいます。
新大橋は、明治45年(1912)鉄橋となり現在地に架替えられました。
この鉄橋は、大正12年の関東大震災の折には、他の鉄橋が落ちる中で、この新大橋だけが残り避難の道として多数の人命を救いました。また、太平洋戦争の大空襲にも耐え、多くの人の命が助かったため、「人助けの橋」といわれるようになりました。
明治に架橋された新大橋は、昭和52年(1977)、現在の新大橋に架替えられ、旧鉄橋は明治の面影をとどめる橋であることから、愛知県の明治村へ移され保存されています。
新大橋の南東のたもとには、明治45年の新大橋の親柱が残されています。明治の雰囲気を残す貴重なものです。(下写真)

また、親柱の建っている広場の東側の一段低くなった場所に現在の新大橋の江東区側の東南たもとに「御船蔵跡」の石柱が建っています。 (下写真)

現在の新大橋のある地点から北にかけて、幕府の船を格納する御船蔵がありました。幕末の切絵図を見ると次のように、江戸時代の新大橋の北側に御船蔵が描かれています。また、新大橋の東側に幕府の「籾蔵」があったこともわかります。ただ、現在は、その名残りを残すものは全くなく、多くの住宅が建ち並ぶ住宅地をなっています。

幕府の船として有名な安宅(あたけ)丸も、寛永9年(1632)この付近に伊豆から回航され格納されていましたが、天和2年(1682)に解体されました。
御船蔵一帯の地域は、安宅丸にちなみ安宅と呼ばれていて、明治2年、深川安宅町となづけられましたが、昭和の初めに新大橋一丁目となっています。
新大橋を描いた絵として大変有名なのが、歌川広重の描いた「名所江戸百景の」の一つ「大はしあたけの夕立」です。この絵をゴッホが模写したことで大変有名ですが、この絵は、日本橋側から新大橋を描いたもので、左上部の遠くに黒く描かれた部分が「御船蔵」だと言われています。

赤印が新大橋です。
青印が旧新大橋跡の石碑設置の場所です。
ピンク印が芭蕉記念館です。

