飛鳥山公園(新江戸百景めぐり⑪)
新江戸百景めぐり、今日は、飛鳥山公園をご案内します。
『新江戸百景めぐり』(小学館刊)P52第11景に紹介されています。
飛鳥山公園は、JR王子駅の西側駅前にあります。
飛鳥山は、山手台地の末端にある丘で、王子駅から見ると、急な崖となっています。そのため、桜の季節に王子駅のホームから飛鳥山を見ると桜の壁があるように見えます。(下写真)
飛鳥山は、この地の豪族豊島氏が鎌倉時代末期の元亨年間に紀州新宮の飛鳥明神を勧請したことから飛鳥山と呼ばれるようになりました。
飛鳥山の名前の由来となった飛鳥明神がどこか調べてみたら、現在の和歌山県新宮市にある阿須賀神社のようです。阿須賀神社の裏山蓬莱山は別名飛鳥山と呼ばれているようですし、阿須賀神社の境内の案内板には『元享2年(1322)阿須賀権現が現在の東京北区飛鳥山に勧請される』と書かれてあるそうです。
この飛鳥明神は、寛永年間に王子権現造営のとき山上から移され合祀されたたと江戸名所図会に書かれています。ですから、現在の飛鳥山公園には飛鳥明神は鎮座していません。
合祀されたという王子神社は、王子という地名の由来となった由緒ある神社です。(下写真)
もともと、元享2年(1322)にこの地の豪族豊島氏により熊野から若一王子(にゃくいちおうじ:王子権現)を勧請しお祀りしたのが始まりです。それ以来、それまで岸村と呼ばれていた当地が王子と呼ばれるようになりました。
江戸に入った徳川家康は、天正19年(1591)に200石の所領を与えて、江戸時代には、王子権現と呼ばれました。
その王子神社にもお参りして、飛鳥明神の合祀のことを訪ねたところ、神官の答えでは、戦災にあっていることもありはっきりしないけれど、現在の王子神社には合祀されてはいないということでした。
飛鳥山公園には、飛鳥山の由来を書いた「飛鳥山碑」があります。(下写真)
元文2年(1737年)金輪寺住持が建立し、碑文は儒官成島年筑、篆額は尾張の医官山田宗純の書です。
大きな石碑の石材は、江戸城吹上庭園にあった紀州産の青石だそうです。
この飛鳥山碑は漢文で書いてあり、石の傷等も避けて刻まれていて、非常に難解で多くの人に読めませんでした。
そのため、
飛鳥山何と読んだか拝むなり
飛鳥山どなたの墓とべらぼうめ
この花を折るなだろうと石碑見る
などと川柳に詠まれています。
その難解な飛鳥山碑の全文が、江戸名所図会で読み下されています。
それを読むと、豊島氏が熊野の神様を祀ったことから王子と呼ばれるようになり、山が飛鳥山と呼ばれるようになり、川が音無川と呼ばれるようになったこと、将軍吉宗が、飛鳥山を王子権現に与えたこと。そして桜を植えさせ、大勢の人々に整備させたため、美しい土地となったことなどが書かれています。
この飛鳥山碑は、飛鳥山の名物であったため、いろいろな浮世絵に描かれています。下の浮世絵は歌川広重の「東都三十六景飛鳥山」ですが、飛鳥山碑が左手下段にしっかりと描かれています。
飛鳥山碑に書かれているように、飛鳥山が桜の名所となったのは、吉宗が桜の木を植えさせて一般に開放したからです。
吉宗は享保5年(1720)に270本、翌享保6年には1000本を植えたとされています。
こうして、桜の名所となった飛鳥山を歌川広重も名所江戸百景のうちの「飛鳥山北の眺望」という絵を描いています。(下写真)
これには飛鳥山碑は描かれていませんが、飛鳥山から北方面を見た絵で、大きく筑波山が描かれていて、桜の時期に飛鳥山で遊ぶ人々が描かれています。この絵を拡大して見ると飛鳥山の名物であった素焼きの皿を投げる土器(かわらけ)投げをする人も描かれています。
飛鳥山公園には、桜の賦の碑という石碑もあります。(下写真)
これは、明治14年に、佐久間象山の書いた「桜の賦」を勝海舟が中心となって碑を建立したものです。
勝海舟は、佐久間象山の弟子であり、義理の兄(海舟の妹の順が佐久間象山の正室となっているため)です。
最後に、扇屋の話をしておきます。扇屋は慶安元年(1648)創業ということですので、創業以来350年以上経っています。
以前は料亭として営業をやっていましたが、現在は、料亭はやめて、王子駅前(北口徒歩2分)のお店で玉子焼きを販売しています。
(写真は「長崎大学附属図書館所蔵」のものを借用させていただきました。)
目の前の川が、音無川です。この写真の右側が飛鳥山側だそうで、左側が、王子稲荷側だそうです。昔の「扇屋」は飛鳥山側にありましたが、現在は、反対側に移っています。これは音無川の改修工事によるものだそうです。
赤印が飛鳥山碑です。
青印が桜の賦の碑です。
緑印が王子神社です。
ピンク印が扇屋です。