清澄庭園(新江戸百景めぐり⑬)
先週土曜日、文京学院大学生涯学習センターで、「江戸の豪商列伝 一代で巨大な富を築いた男たち」というタイトルで、江戸の豪商についてお話してきました。2回にわたる講座で、今回は、紀伊国屋文左衛門と鴻池家の創業期4代についてお話しました。今回、大勢の方に受講いただきましたが、皆様、熱心に聞いていただきました。ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。

紀伊国屋文左衛門は、①暴風雨をついて紀州みかんを江戸に運んだ。②材木で大儲けをした。③吉原で豪遊をした。④晩年は没落した。といったことで、非常に有名な人物ですが、有名なわりには、紀伊国屋文左衛門の実像はほとんどはっきりしておらず、生没年もわかりません。
有名なみかん船の話も、前江戸東京博物館館長の竹内誠先生によると、作り話であって、幕末に創作された「黄金水大尽盃(おうごんすいだいじんさかずき)」という小説がもとなっているそうです。
しかし、各地には、伝承に基づくゆかりの地があり、江戸深川にも、紀文ゆかりの地があります。
『新江戸百景めぐり』(小学館刊)P88の第39景に紹介されている清澄庭園もその一つです。(下写真は公園入口です)

清澄庭園は、清澄白河駅A3番出口から5分の至近距離にあります。
清澄庭園は、紀伊国屋文左衛門の別邸の跡だとされています。しかし、これを実証するものがありませんので、「別邸跡だといわれている」としか言いようがありません。
幕末の切絵図では、関宿藩久世家の下屋敷となっています。
久世家が拝領したのは、享保年間とされていますが、その下屋敷内の庭園がどのようなものであったかはハッキリしません。
清澄庭園の姿がはっきりするのは明治11年に三菱創業者の岩崎弥太郎が、この屋敷地を買い取って以降のことです。
岩崎彌太郎は、庭園造りが趣味でした。そこで、久世大和守下屋敷を中心とした土地約3万坪(約10万㎡)を買い上げました。
そして、全国から巨石・名石を集め、大規模な造園工事を行い、明治13年に完成しました。その庭園は「深川親睦園」と命名され、三菱社員の慰安や内外賓客を招き接待する場として利用されました。
弥太郎の死後は、弟・弥之助、長男・久弥へと引き継がれ、岩崎家3代によって明治24年に「廻遊式林泉庭園」が完成されました。
庭園中央に隅田川の水を引いた大泉水を造り、周囲には全国から取り寄せた名石が配置されました。配置されている石は伊豆石が多いのですが、中には佐渡赤玉石というような珍しい石もあります。(下写真)

清澄庭園は、関東大震災で大きな被害を受けましたが、この時、災害時の避難場所としての役割を果たし、多くの人命を救いました。岩崎家では、こうした庭園の持つ防災機能を重視し、大正13年に被害の少なかった東側半分(現在の庭園部分)を公園用地として東京市に寄付し、東京市ではこれを整備して昭和7年7月に公開しました。
それでは、現在の清澄庭園の代表的な景色を紹介していきます。下図が清澄庭園の全体図です。上が南となっていて、下が北です。北西の方角(下図では右下隅)に正門があります。

大正記念館
元々は、昭和2年に新宿御苑で行われた大正天皇の葬儀に用いられた葬場殿を移築したものですが、最初の建物が戦災で焼失したため、昭和28年に貞明皇后の葬場殿の材料を使って再建、平成元年4月に全面的に改築されました。大正記念館は集会場として利用できます。

大泉水
庭園中心部には三つの中島を配した広い池があります。昔は隅田川から水を引いていたいわゆる「汐入の池」でした。そのため潮の干満によって池の景観が微妙に変化したといわれます。現在は、「汐入の池」ではなく、雨水でまかなっているそうです。

涼亭(りょうてい)
涼亭は、明治42年に国賓として来日した 前英国インド軍総司令官キッチナー元帥を接待するために岩崎久弥が造ったものです。関東大震災や東京大空襲による焼失を免れて優雅な姿を今も止めています。平成17年には「東京都選定歴史的建造物」に選定されました。集会場として利用できます。

富士山
大泉水の奥に小高く見える築山が富士山です。清澄庭園の中で最も高く大きな築山です。この築山には樹木を植えられておらず、サツキ・ツツジの灌木類が数列横に植えられています。これは富士山にたなびく雲を表現したものだと言われています。

枯滝
富士山の麓に枯滝の石組があります。これは当初から造られていた石組で、コンドルの著書にも紹介されているそうです。滝石組の中央の石組は守護石にも見えます。
下写真は、対岸から写したものです。

磯渡り
大泉水の端には石を飛び飛びに置いて、そこを歩けるようにした磯渡りが3か所ありますもの。下写真が「磯渡り」で、遠方に見えるのが涼亭です。

大正記念館の前には、「大磯渡り」があります。こちらの磯渡りは雄大に造られています。

石仏
ほとんどの人は気が付かないと思いますが、富士山の裏側に4つの石仏があります。

これらは、阿弥陀供養塔(写真中央) 庚申塔(阿弥陀様の左右) 馬頭観音供養塔(左手前)です。これらの石仏は、明治13年に清澄庭園が造成された際に出土したとも、昭和20年に築山が崩れた際に発見されたとも言われています。
【成等院=紀伊国屋文左衛門の墓】
清澄庭園は江戸時代、紀伊国屋文左衛門の別邸跡だという言い伝えがあると冒頭お話しましたが、その紀伊国屋文左衛門のお墓が、清澄庭園のすぐ近くの成等院にあります。成等院は、江戸時代は、霊厳寺の塔頭でした。
現在、成等院の紀文のお墓は、東日本大震災の被害をうけたため、公開されていませんが、墓域の外側からお参りすることができます。

上写真中央の大きな石碑は「紀伊国屋文左衛門之碑」と刻まれていて、紀文の顕彰碑です。この石は紀州青石で、文字は、和歌山市出身で海軍大将でも太平洋戦争勃発寺の駐米大使であった野村吉三郎です。
その大きな石碑の隣が、紀文のお墓です。表面は、摩耗していて、まったく文字が読めません。

『新江戸百景めぐり』(小学館刊)に霊厳寺について書いてあるので、霊厳寺についても触れておきます。下写真は本堂です。

霊厳寺は、寛永元年(1624)に、雄誉霊巌上人が霊巌島(現在の東京都中央区新川)に霊厳寺を創建したのが始まりです。その当時、霊巌島の辺りは湿地帯で、そこを埋め立てて霊巌寺を建てました。霊厳寺は、明暦3年(1657)のいわゆる振袖火事によって焼失し、現在の深川の地に移転しました。元の創建の地は霊巌島という霊厳由来の地名が残されました。霊巌上人は、のち浄土宗総本山の知恩院32世に就任しています。
霊巌寺の本堂の西側に松平定信の墓所があります。墓所は塀に囲まれた区画となっています。下写真は墓所の正面写真です。

松平定信は、御三卿の田安宗武の7男で8代将軍徳川吉宗の孫にあたります。
白河藩主の松平(久松)定邦の養子となり、天明3年(1783)に白河藩主となります。折からの天明の大飢饉にも、領内から餓死者を出さず、名君と言われました。そして、天明7年(1787)、老中首座に就任し、吉宗の享保の改革を手本とした寛政の改革を行いました。その松平定信のお墓は墓所の奥にあります。(下写真)
霊厳寺に松平定信のお墓があるのは、霊巌寺が松平(久松)家の菩提寺だからです。そのため、幕末は桑名藩主となった松平(久松)家の歴代藩主の墓も霊厳寺はあるそうですが、公開されていません。

また、霊厳寺には、六地蔵菩薩像があります。(下写真)
門を入って、参道中程の左手に鎮座していますが、おおきなお地蔵様ですのですぐにわかります。
六地蔵の5番目として、享保2年(1717年)4月に建立されています。
像の高さは、2.73メートルで、台座が低いため、見上げる感じではなく、身近に感じられます。仏身には、金箔がかすかに残っているそうです。

赤印が清澄庭園入口です。
青印が成等院です。
緑印が霊厳寺です。

