日本橋通り(新江戸百景めぐり⑱)
先週土曜日に、文京学院大学生涯学習センターで「江戸の豪商列伝 一代で巨大な富を築いた男たち」の2回目の講座が行なわれました。
今回は、三井高利について話をさせていただきました。
三井高利は、越後屋の創業者です。延宝元年(1673)52歳で江戸の本町通りに越後屋を開店し、「現金掛け値なし」の革新的な商法で、越後屋を繁栄させましたが、呉服や仲間からの妨害を受けたため、天和3年(1683)駿河町に移転し、その後、両替商も兼営し、呉服と両替を車の両輪として、越後屋を江戸随一の豪商に押し上げました。
受講者の皆さんは、今回も大変熱心に聞いていただきました。私も、受講者の皆さんの熱意に押されて楽しく話をさせていただきました。
受講いただいた皆様ありがとうございました。
この講座では、東京の三井本館と三越日本橋本店、京都の三井家の菩提寺真如堂、松阪の三井発祥の地など三井高利ゆかりの地も紹介しました。
『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、越後屋のあった日本橋通りも取り上げられています。そこで今日は、日本橋通りをご案内します。
『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、P116の第60景で紹介されています。
越後屋があった場所は、現在の三越日本橋本店と三井本館がある場所です。下写真の奥が三越日本橋本店、手前のビルが三井本館、手前の道路が中央通りです。
三井高利は、天和3年(1683)に、それまであった本町から駿河町に店舗を移転しました。その移転場所が、現在の三越日本橋本店のある場所です。
最初の店舗は、間口7間で、東側4間で呉服店、その西側3間が両替店でした。その後、貞享2年(1685)に、両替店を北側(現三井本館のある場所)に移し、南側は呉服店だけとしました。
そして、元禄11年(1698)には、北側は呉服店本店とし絹織物を扱い、南側は綿店として木綿製品等を扱うこととして、駿河町の南北は越後屋が占めることになりました。
まさに、葛飾北斎の「冨嶽三十六景『江都駿河町三井見世略図』」(すぐ上浮世絵)や歌川広重の「名所江戸百景『する賀てふ』」(下浮世絵)に描かれているような景色となりました。
現在の三越日本橋本店は、大正3年に建設されました。当時はスエズ運河以東最大の建物と言われました。
建物はネオ・ルネッサンス・スタイルの建築で、5階建一部6階でした。その後、関東大震災で損傷し、昭和2年に修復工事が完了し、昭和10年に増改築され、現在みられるような形となりました。三越日本橋本店は平成28年に国の重要文化財に指定されています。
三越の正面玄関にあるライオン像は、モデルとなったのは、ロンドンのトラファルガー広場にあるネルソン提督像を囲むライオン像です。大きさはそこの約半分になっているそうです。
これは、当時の三越の支配人の日比翁助(ひびおうすけ)のアイデアです。日比は、ライオンが大好きで自分の息子に「雷音」と名前を付けたほどでした
三越日本橋本店の北側には、江戸時代は、越後屋の本店と両替店がありましたが、現在は、三井本館が建っています。
三井本館は、三井財閥を構成していた三井合名会社、三井銀行(現三井住友銀行)、三井信託銀行(現三井住友信託銀行)、三井鉱山(現日本コークス工業)等の主要各社の本社が入居し、三井財閥の拠点として昭和4年(1929)に建設されました。今年は2019年ですので、ちょうど90周年を迎えることになります。三井本館も平成10年に国の重要文化財の指定を受けました。
三越日本橋本店の地下は、東京メトロ三越前駅に直結しています。
その地下コンコース壁面に、約17メートルにわたる「熈代勝覧」の複製絵巻が展示されています。(下写真)
「熈代勝覧」とは、「熈(かがや)ける御代の勝(すぐ)れたる景観」という意味で、この絵巻は、文化2年(1805)頃の日本橋から今川橋までの大通り(現在の中央通り)を東側から俯瞰したものです。
絵巻には沿道にある88軒の問屋や店のほか、通りを歩く人1671人、犬20匹、馬13頭、牛4頭、猿①匹、鷹2羽が描かれていると言われています。もちろん、越後屋も描かれています。直前の貴重な記録といえます。
この絵巻により、文化時代の日本橋通りの様子がよくわかります。
三井本館から中央通を北に少し行くと「日本橋室町三井タワー」が見えてきます。この建物は、今年(2019年)3月には竣工した建物です。
下写真は「日本橋室町三井タワー南東の入口の全体写真です。
その南東の入口に「十軒店跡」の説明板が設置されています。
半透明なので写真に写りにくいのですが、下の写真であればタイトルがいくらかわかると思います。
十軒店は雛市(ひないち)の立つ場所として江戸で有名でした。
十軒店は、下の切絵図でわかる通り、町の名前です。その名前は、戸時代の初め、桃の節句・端午の節句に人形を売る仮の店が十軒あったことから、この名があるともいわれています。
江戸時代中期以降は、3月と5月の節句や12月には、お雛様、五月人形、鯉のぼり、破魔矢、羽子板など、季節に応じた人形や玩具を売る店が軒を並べていました。
「江戸名所図絵」には「十軒店雛市」と題し、店先に小屋掛まで設けて繁昌(はんじょう)している挿絵が描かれています。
「日本橋室町三井タワー」の北東に新日本橋駅があります。その駅の入口に『中崎屋跡』の説明板が設置されています。(下写真)
長崎屋は、江戸時代、薬種問屋でしたが、長崎に駐在したオランダ商館長の将軍に拝謁するために江戸に参府した際の定宿になりました。
将軍拝謁は諸外国のうち、鎖国政策のため外国貿易を独占していたオランダが、幕府に謝意を表するために献上品を携えて行った行事でした。江戸出府は江戸初期から毎年一回行われましたが、長崎からの随行の人々は、商館長の他、通訳、学者などが賑やかに行列して江戸に来ました。しかし、経費のことなどで、江戸中期からは数年に1回となっています。
商館長に随行したオランダ人の中には、ツンベルクやシーボルトなどの一流の医学者がいたので、蘭学に興味を持つ桂川甫周や平賀源内はじめ日本人の医者や蘭学者が訪問し、外国の知識を吸収する貴重な場所でした。
長崎屋の北には、石町の時の鐘がありました。
そのため、新日本橋駅の北側の通りに「石町の時の鐘」の説明板があります。(下写真)
江戸の初期は、江戸城内の土圭の間にある時計で時刻をはかり、城内にある太鼓を打って知らせていました。しかし、城内ではうるさいので、町方に移させるということになりました。その移転先が石町でした。つまり、石町の時の鐘が最初の時の鐘です。
その後、時の鐘は増加して、江戸時代後期には、日本橋の石町、浅草、上野、本所横川町、目白不動、市ヶ谷八幡、四谷天竜寺、赤坂成満寺、芝切り通しの9カ所となりました。
そして、時の鐘は明治4年に廃止されたため、石町の時の鐘は近くの屋敷の庭に放置されていましたが、昭和5年に十思公園内に鐘楼を建てて移設されました。それが現在、十思公園にある時の鐘です。(下写真)なお、鐘楼は、移設時に新たに建設されたものです。
赤印が三越日本橋本店、その北側が三井本館です。
青印が日本橋室町三井タワーの十軒店跡の説明板設置場所です。
緑印が長崎屋跡の説明板設置場所です。
ピンク印が石町の時の鐘の説明板設置場所です。