南町奉行所跡(新江戸百景めぐり㉓)
今日は、前回の「北町奉行所跡」に続いて「南町奉行所跡」について書いていきます。
『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、74ページの第
29景で紹介されています。
江戸時代の「南町奉行所」は、JR有楽町駅の周辺にありました。「南町奉行所跡」の史跡説明板は、イトシア前の広場の地下1階に降りる階段・エスカレーターの東側にあります。有楽町駅の中央口からはちょうど正反対側になります。(下写真) 大きな看板のほか、コンクリートの壁に説明板がはめ込まれています。写真左手の石組は下水溝の石組を復元したものです。
(正確には、短期間ですが、中町奉行がいて、町奉行が三人いる時代もありました。)
南町、北町奉行と言うと、江戸の町を南北に管轄を分けて取り仕切っているような印象がありますが、江戸を南北に分割して管轄していた訳ではありません。
それでは、どのように分担していたからと言いますと、一月交代で、仕事を分担していました。これを月番制といいます。南町奉行が月番の場合には、南町奉行所が門を開けていました。
そして、北町奉行所の方は、門を閉めていて、南町奉行所だけが訴訟や請願・申請そして事件を受け付けました。月番でない奉行所は休んでいたかというとそうではありません。それまでに受け付けていた訴訟や申請や事件の処理を行っていました。このように月番制で江戸の町政を担当していました。
それでは、南町奉行所、北町奉行所の区別は何によるかということになりますが、これは奉行所の所在地によります。二つある奉行所のうちどちらが南にあって、どちらが北にあるかによります。 有楽町駅周辺にあった南町奉行所は、宝永4年(1707)に常盤橋門内から数寄屋橋門内に移転し、幕末までこの地にありました。
そして、江戸時代を通じて、数寄屋橋門より南に他の奉行所があったことがありませんでした。
そのため、宝永4年以降江戸時代を通して、数寄屋橋門内にあった奉行所は、南町奉行所と呼ばれ続けました。(下写真は、東側から見た旧跡説明板です。コンクリートの壁に設置されています。)
数寄屋橋門内の南町奉行所は、広さが約2620坪ありました。
表門は東側にあり、現在の有楽町イトシア辺りにあり、西側は、有楽町駅脇のガードまで、南はマリオンとの間の道路脇まで、北はほぼ有楽町駅の中央口あたりだったと思われます。
奉行所というのは、役所の部分と町奉行の私邸の部分とからなっていました。現在、首相官邸と首相公邸が同じ敷地内で隣接しているのと同じような状態でした。
南町奉行所は、表門が東側にありましたので、東半分が役所部分となっていました。そして、町奉行やその家族が私的に出入する裏門は西側にあり、西半分が自宅部分でした。
表門を入ると正面は奉行所玄関となっていました。その玄関までは、まっすぐに五六尺の幅の青板の敷石、それを残して一面に那智黒の砂利石が敷き詰めてあったようです。
表門を入った左手つまり南側に時代劇によくでてくる「お白州」がありました。
南町奉行所跡は、都指定旧跡「南町奉行所跡」になっていて、有楽町駅前地区再開発事業が実施されるのに際して、発掘調査が1次平成17年4月25日~6月30日、2次11月17日~12月19日の間実施されました。
この発掘により、大名屋敷期の遺構は131基、南町奉行所期の遺構は23基検出され、両時期に伴う多くの遺物が出土したそうです。
遺構としては、奉行所表側地境の石組下水溝、穴蔵、井戸、上水遺構などが発見され、遺物としては、陶磁器のほか、「大岡越前守御屋敷ニ而~ 」と墨書された木札などが出土したそうです。 有楽町イトシアの地下1階広場には、この発掘調査で出土した穴蔵を復元したものが展示されています。(下写真)
穴蔵のなかに重要品を放り込み蓋をしたうえで、土をかぶせ、そのうえに濡れたふとんや畳をかぶせて焼失するのを防ぎました。
そのほか、遺蹟からは上水道管も出土しました。その江戸時代の水道管である木樋が穴蔵脇の木製のペンチとなっています。
さらに、出土した石を利用してベンチが、地下1階に作られています。(下写真)
赤印が、「南町奉行所跡」の説明板が設置されている場所です。有楽町駅の中央改札を出ると正面に地下への入り口がありますが、その入り口の裏側に設置されています。