根津神社(新江戸百景めぐり㉕)追記
今日は、根津神社の祭礼について追記します。
『新江戸百景めぐり』(小学館刊)にも書いてありますが、根津神社の例大祭は9月21日に執り行われます。下写真は根津神社の楼門です。
その例大祭は、江戸時代は「宝永祭」と呼ばれ、天下祭の一つに数えられたこともありました。天下祭というのは、祭礼行列が江戸城内に入ることができ、将軍の上覧があるお祭りをいいました。
最初に将軍の上覧があった祭礼は山王権現(現在の日枝神社)の山王祭で、次いで神田明神の神田祭が天下祭となりました。
そして、正徳4年に行なわれた根津神社の祭礼が一度だけ天下祭とされました。下写真は根津神社の社殿です。
宝永祭が1度だけ天下祭とされ、それ以降継続されなかったのは、根津神社を産土神としていた将軍家宣と家継が短期間のうちに死去したからです。
宝永6年(1709)に徳川家宣が6代将軍に就任しました。しかし、将軍就任して3年後の正徳2年(1712)10月14日に家宣が死去していました。その跡は、家宣の子供の徳川家継が継ぎ、7代将軍となりました。
翌年正徳3年に町触が出され、「山王権現を巳年、根津権現を午年、神田明神を未年とし、以後3年交代で祭礼を行う」とされました。
その町触によって、午年であった正徳4年の9月22日に、根津神社の祭礼がおこなれました。本来は9月21日ですが、21日に雨が降ったため翌日に延期されました。
この祭礼は盛大に行われ、3基の神輿と江戸各町から合計50台の山車が出たと言われています。この時の神輿は現在も残っていて、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)に記載されている神輿です。
しかし、正徳6年4月30日に、家継が死去してしまいました。そのため、宝永祭も一般の祭りと同格となってしまいます。
そうして宝永祭は一度だけ天下祭となったのです。
『東都歳事記』には、根津神社の祭礼について次のように書いています。
「世に宝永祭といふ。宝永の頃まで御庭祭とて行ひしが、同三年丙戌当社御造営あり。明る4年亥9月21日駒込片町より祭りを出し、これより隔年になり、正徳2年に至り官より命ぜられ、山王祭礼の格にならひて、同4年9月江戸町々より始て祭を渡し、出しねり物に美麗を尽くせしが其後行れず。」
また、『武江年表』には、「21日なりしが、雨天成し故、今日に延たり。今年にはじまり、一年にして止たり。番数50番、町数154丁なり」と書かれていて、ともに1回だけ行われたと書いてあります。