志村一里塚(新江戸百景めぐり㉙)
今日は、板橋区にある志村一里塚を案内します。
志村一里塚は、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)70ページに第24景として紹介されています。
志村一里塚は、都営三田線志村坂上駅より徒歩1分です。出口を出ると目の前にあります。
志村一里塚は下写真でわかるように国道17号を挟んで東西に2基の塚が残っている全国的に見ても貴重な一里塚です。

一里塚は、慶長9年(1604)徳川家康が秀忠に命じて江戸日本橋を起点とする全国の街道沿いに、1里(約4km)毎に築かせたものです。
一里塚の大きさは、五間(約9メートル)四方、高さ1丈(約3メートル)とされました。
一里塚には榎が植えられることが多いのですが、その由来について、徳川実紀に2つのエピソードが書かれています。
一つは、2代将軍秀忠が大久保長安に「良い木」を植えよと命じた際に、大久保長安が「えのき」と聞き間違ったためとされています。
もう一つのエピソードとして、徳川家康が、土井利勝に対して「余の木」を植えろと指示したのを土井利勝が「えのき」と聞き間違えたためだとも書いてあります。
(下写真は、志村一里塚の西側の一里塚です)
志村一里塚は中山道の第3番目(つまり日本橋から3里)の一里塚として築かれたものです。
中山道の日本橋から数えた一番目の一里塚は追分の一里塚です。現在の東大農学部正門前の本郷追分にありました。
現在は、その面影はまったくありませんが、老舗の酒屋「高崎屋」の壁際に文京区教育委員会の設置した説明板があります。(下写真)

中山道の2番目の一里塚は、板橋の平尾にありました。
現在で言えば、JR埼京線板橋駅の近くになります。板橋駅の東口を出ると駅前に近藤勇のお墓があります。(下写真の左手が近藤勇の墓、右手が永倉新八の墓です)

その前の道を北に向かい中山道と交差した場所辺りが平尾の一里塚です。現在は、まったく面影もありませんし。板橋区教育委員会の説明板もありません。下写真の濃茶色のビル辺りに平尾の一里塚があったようです。左手道路を進むと板橋駅の東口、中央の道路が旧中山道で、奥が板橋方面です。

このように、一里塚がほとんど消滅しているのは、明治9年(1876)に「一里塚廃毀」の法令が出され、全国的に取り壊しが進んだためと思われます。
明治以降多くの一里塚が消滅するなか、現在、2基一対で残っている一里塚は、東京では、志村の一里塚と西ヶ原の一里塚だけですし、全国的にも大変少ないものだそうです。
ちなみに西ヶ原の一里塚は、北区西ヶ原(飛鳥山公園の南側)にある一里塚で、日光御成街道の一里塚です。下写真は本郷通りの中央にある一里塚です。この塚から道路を挟んだ東側にもう一つの塚が残されています。

志村の一里塚は、現在国道17号の東西に、広い道路を挟んで残っているため、いずれかの一里塚が移設されたものだと勘違いする人が多いようです。
しかし、志村の一里塚は、当初から中山道とは少し離れた場所に設置されていたため、国道17号の拡幅工事によって移動したり、削ったりはされていないそうです。
赤印が志村一里塚(東側)です。
青印が志村一里塚(西側)です。


