両国橋(新江戸百景めぐり㉚)
今日からは、両国橋周辺の新江戸百景をご案内します。
最初は両国橋をご案内します。
『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、64ページの第18景で紹介されています。
両国橋には、JR総武線浅草橋駅からは7分、両国駅からは13分です。
下写真は、浅草橋駅側から撮った現在の両国橋です。

【両国橋架橋】
両国橋が架けられたのは明暦の大火がきっかけでした。
それまで、徳川幕府は、防備の面隅田川には、橋を架けない方針でしたので、江戸初期は、隅田川には千住大橋以外の橋はありませんでした。
しかし、明暦3年(1657)明暦の大火の時に、被災者が隅田川東側に避難するすべがなく、被害を拡大させた反省から、両国橋が架けられました。
両国橋の創架年は2説あり、万治2年(1659)と寛文元年(1661)の説がありますが、千住大橋に続いて隅田川に2番目に架橋された橋で、長さ96間(約200m)、幅4間(約8m)でした。
江戸時代の両国橋が架けられていたのは、現在の両国橋より50メートルほど下流でした。
橋の名称は当初「大橋」と名付けられていました。しかしながら隅田川の西側が武蔵国、東側が下総国であり、この2つの国にまたがっていたことから俗に両国橋と呼ばれ、元禄6年(1693)に新大橋が架橋されると「両国橋」が正式名称となりました。
なお、隅田川の東側が武蔵国になった時期については、まさに諸説があります。
【現在の両国橋】
両国橋は、江戸時代には、火事により燃え落ちたり、洪水により流されたり、古くなって破損したりして、何度も架け替えがされました。
明治になってから、明治8年に最後の木でできた橋が架けられました。しかし、この木の橋は明治30年8月の花火大会の最中に、大勢の群集に押されたことにより欄干が崩落してしまい、死傷者が数十名にもおよぶという事故がおきたため、明治37年に、鉄橋に架け替えられました。
そして、その橋が関東大震災後で被害を受けたため、昭和7年に新しく架けられたのが現在の橋です。
両国橋は、平成20年、言問橋と共に東京都の東京都選定歴史的建造物に選定されました。(下写真は東側下流からとった両国橋全景です)

浅草御門
浅草橋駅から両国橋に向かうには神田川を渡ります。その神田川にかかる橋が浅草橋です。
その浅草橋の北たもとに浅草見附跡と書かれた石碑がたっています。(下写真)

見附というのは、城門のことです。
江戸時代には、浅草橋の南側に浅草御門がありました。これが浅草見附とも呼ばれていました。
浅草御門は、奥州街道の出入り口の関門として建てられました。浅草御門は、「浅草寺」の正面にあることから付けられた名前です。「浅草寺 見附で聞けば つきあたり」という句の通り、浅草見附の真北が浅草寺になります。
門が建てられたのは、寛永13年(1636)で、門を構築したのは、越前藩主松平忠昌でした。
幕府が開かれた当時は、現在の常盤橋門が、浅草口と呼ばれましたが、この門が構築されてからは、浅草口の名前も、こちらに移りました。
現在は浅草御門の面影がまったくありませんが、橋の近くにある初音森神社の資料館に浅草御門の門柱の一部が展示されています。(下写真が初音森神社で、写真左手奥に資料館があります。)

江戸の三大大火の一つである明暦の大火の時には、この門が閉じられたため、ここで2万3千人もの人が死亡するという惨事が起きました。
火事が小伝馬町牢屋敷に近づいた時に、石出帯刀が、小伝馬町牢屋敷の囚人を切放(きりはなし)をしましたが、そのことが、浅草橋門に正しく伝わらず、「囚人が牢屋敷から逃げ出した」と伝わりました。浅草門は、江戸市中から浅草方面に逃げる逃げ道でした。そのため、多くの市民が殺到していました。
しかし、囚人が脱走したと勘違いした番人が警戒のため門を閉めたといわれています。そのため、浅草門内には大勢の人が集まり、身動きできない状態となりました。そこに火事が迫ってきました。
逃げ場を失った人の中で、体力のあるものは、浅草門の石垣をよじ登り屋根を乗り越えて、そこから神田川に飛び込みました。彼らは頭や体を打ち、大けがをしたり死亡したりしました。後から飛び降りてくる人たちに圧殺されたりしました。そうしているうちに浅草門自体に火が移り、門が大音響とともに崩れおちました。これにより門内にいた人たちも燃やし尽くされてしまいました。ここでの死者は2万3千余りと「むさしあぶみ」は書いています。下写真が初音森神社の資料館に展示されている浅草御門の門柱です。なお、資料館は常時公開されていないようです。どうしても見たいという時には事前連絡されると良いと思います。

柳橋
浅草橋の下流にある橋が柳橋です。(下写真)

柳橋は、神田川の最下流にある橋で隅田川との合流地点にあります。そうしたことから、当初は川口出口之橋といっていたようです。
江戸時代初めには、ここには橋がなく、渡船で往来していましたが、元禄10年に南町奉行所に架橋を願い出て、翌年の元禄11年に完成しました。
当初は川口出口之橋と呼ばれていましたが、いつしか柳橋とよばれるようになりました。
柳橋という名前は、柳原の土手の先にあるので柳橋と呼ぶとか、橋のたもとに柳があったので柳橋の名がついた等の諸説があります。
現在の柳橋は、永代橋のデザインを採り入れて、昭和4年(1929年)に完成したものです。
両国橋は、浮世絵にも数多く描かれています。
その中から、歌川広重の描く名所江戸百景に描かれた両国橋を取り上げみます。
名所江戸百景の「両国橋大川ばた」
下の絵は、名所江戸百景の「両国橋大川ばた」です。

この絵は、西詰から本所側を描いたものです。手前の川端にあるのは、両国広小路のよしず張りの茶店です。
川面には、屋根船、猪牙(ちょき)船、帆船などが描かれていて隅田川が賑わっている様がうかがえます。
対岸には百本杭(隅田川の水の勢いを弱めるために打たれて多くの杭)も描かれています。
名所江戸百景の「浅草川大川端宮戸川」
下の絵は、名所江戸百景の「浅草川大川端宮戸川」です。

両国橋の東たもとには、垢離場(こりば)があり、大山参りの人々が、そこで、身を清めました。
この絵は、垢離場で水垢離を終えた大山講の講中が出発するところです。画面最下段には梵天(棒の先に幣束を何本もさしたもの)を先頭にした大山講の人々が描かれています。
この大山講の人たちが渡っているのが両国橋という説と船で渡っているという説があるそうです。
中ほど右の船上にも梵天が立てられ、先達を務める修験者が法螺貝を吹いています。
左手に描かれているのが柳橋の料亭で、有名な「万八楼」だろうといわれています。
両国橋の東側に「石尊垢離場跡」(しゃくそんこりばあと)の説明板があり、次のようにわかりやすく書いてあります。

「石尊とは、神奈川県伊勢原市にある大山の事です。山頂の阿夫利神社は、商売繁盛と勝負事に御利益があるので江戸中期、江戸っ子が講を組み、白衣に振り鈴、木太刀を背負った姿でお参りに出かけました。出発前に水垢離をとり、体を清めました。その垢離場が旧両国橋の東南際にありました。川の底に石が敷いてあり、参詣に出かける者が胸のあたりまで水につかり「さんげさんげ、六根罪障、おしめにはったい、金剛童子・・・」などと唱えながら、屈伸を行い、そのたびにワラで作ったサシというものを流したのです。その賑わいは、真夏の海水浴場のようだったとされています。」
【9月8日追記】
葛飾北斎の富嶽三十六景の中に両国橋を描いたものがありますので、追記して紹介しておきます。それは「御厩川岸(おんやまがし)から両国橋夕陽見(りょうごくばしせいきようをみる)」です。(下の絵です)
御厩川岸は、隅田川の両国橋と吾妻橋の間、現在の厩橋が架かる付近で、江戸時代には、ここに渡し船があり、御厩の渡しといいました。
北斎は、夕暮れ時の渡し船を絵の近景に描き、中景に両国橋を描き、その先に小さな富士を描いています。
夕暮れ時の富士は紺青に彩られています。
そして、この絵をよくみると船頭の頭を中心点として、両国橋と渡し船が点対称となっていることがわかります。
北斎の面目躍如といったところでしょうか。
赤印が両国橋です。
青印が浅草橋です。
緑印が柳橋です。
ピンク印が初音森神社です。

