回向院(新江戸百景めぐり㉜)
今日の新江戸百景めぐりでは、回向院をご案内をします。「新江戸百景めぐり」(小学館刊)では122ページの第64景で紹介されています。
回向院は、JR両国駅から徒歩5分の距離にあります。
下写真は、回向院の山門ですが、現在工事中でしたので、以前い撮影したものをアップしておきます。

回向院は、明暦の大火でなくなった人々を供養するために明暦3年(1657年)に開かれた浄土宗の寺院です。
この年、江戸には「振袖火事」の名で知られる明暦の大火があり、市街の6割以上が焼土と化し、10万人以上の人がなくなりました。この大火により亡くなられた人々の多くは、身元のわからない人々でした。
明暦の大火は1月18日~19日に起きました。1月24日は2代将軍秀忠の命日です。大火の後なので、将軍家綱でなく家光の弟の保科正之が代参しました。代参の途中、多くの焼死体が放置されている町の様子を見て、亡くなった人々を一か所に葬むるようにしたいという保科正之の提案を受けて、幕府は、無縁の人々を手厚く葬るようにと現在の回向院がある場所に土地を準備し「万人塚」というお墓を設けました。
そして、増上寺の住職遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を行いました。
このとき、念仏をあげるため御堂が建てられました。これが回向院の始まりです。
宗派に関係なく無縁の人々を回向するということから、諸宗山無縁寺回向院と名付けられました。(下写真は、回向院の本堂です)

供養塔
回向院には、創立の経緯から、災害で亡くなった人々の供養塔が多く建てられています。
回向院建立のきっかけとなった明暦の大火でなくなった人々を供養する明暦大火横死者追善供養塔は、東京都指定文化財となっています。(下写真の最も右手の供養塔です)
また、安政大地震で亡くなった人々を供養する供養塔も3基建立されています。
さらに、海難事故で亡くなった人々を供養するものも建立されています。そのなかには、有名な大黒屋幸大夫の名前が刻まれたものもあります。

鼠小僧の墓
回向院には、鼠小僧次郎吉のお墓があることで有名です。
鼠小僧は大名屋敷を狙い、3000両の金を盗んだと言われます。現在の研究家の間では「鼠小僧は盗んだ金のほとんどは博打と女と飲酒に浪費した」という説が定着しています。
長年捕まらなかった運にあやかろうと、墓石を削りお守りに持つ風習が江戸時代から盛んで、いまも墓石を削ってお守りにする人が大勢います。
特に「するりと抜ける」ということから合格祈願に来る受験生方があとをたたないそうです。
江戸時代は、罪人は原則的に墓を建てらることはできませんでした。回向院の鼠小僧のお墓は、正面に「俗名中村次郎吉之墓」と刻まれていて、裏面には大正15年12月15日建立と刻まれていることから 大正15年に建てられたものと思われます。

回向院には、鼠小僧のほか有名な人々のお墓もありますので、そのうちのいくつかを紹介します。
山東京伝・京山の墓
山東京伝は、本名岩瀬醒(さむる)、紅葉(もみじ)山の東にあたる京橋に住居する伝蔵の意で、山東京伝の号を用いていました。初め北尾重政の門に入り浮世絵師として活躍しましたが、文筆生活に入り、黄表紙・洒落本作者として活躍しました。その隣に、京伝の弟、山東京山(本名、岩瀬百樹)のお墓もあります。下写真の左手が山東京伝(本名の岩瀬醒と刻まれています)、その右が山東京山(本名の岩瀬百樹と刻まれています)です。

加藤千蔭の墓
加藤千蔭は、町奉行与力で歌人でもあった加藤枝直の子どもで、父の跡を継ぎ町奉行与力を勤め、賀茂真淵に入門し、村田春海(はるみ)と並ぶ江戸派の代表的歌人として知られました。

鳥居清長顕彰碑
浮世絵師鳥居清長のお墓も回向院にあったそうですが、その行方がわかなくなっていました。清長の没後200年になるのにあわせ平成25年に鳥居清長の顕彰碑が本堂裏に建立されました。

勧進相撲
江戸時代後期になると、回向院で、相撲が盛んに行われました。
相撲は、江戸時代は主として神社仏閣の再興や造営の費用を集めるための勧進相撲の形態をとっていました。
最初は、深川の富岡八幡宮で開催されましたが、その後江戸市中のいろいろな神社、寺院で行われるようになり、回向院でも開催されるようになりました。
勧進相撲が回向院境内で初めて行われたのは明和5年(1768)と言われています。その後、天明年間から回向院での相撲興行が多くなり、天保4年(1833)以降、回向院が江戸における大相撲の開催場所を独占するようになり、ついに、回向院だけで行われるようになりました。
そして、明治42年に先代の両国国技館が、回向院の境内地に完成するまでの約80年間、回向院で大相撲が開催されました。
このように、回向院が江戸の勧進相撲の中心地であったことから、回向院に力塚の碑が建てられています。力塚の碑は、昭和11年に相撲協会が歴代相撲年寄の慰霊の為に建立したものです。(下写真)

名所江戸百景「両ごく回向院元柳橋」
歌川広重は、回向院と勧進相撲を結び付けて名所江戸百景のうちの一つ「両ごく回向院元柳橋」を描いています。(下画像)

近景左手に大きく描かれているのが回向院境内に建てられた櫓太鼓です。相撲が行われている際は、櫓を建てた上で開場閉場などを知らせる太鼓が打たれました。江戸時代の末期には相撲の櫓の高さは約 16mと規定されていましたが、その櫓から打出す太鼓の音は江戸市中に伝わり、大勢のお客を呼び込んでいました。
隅田川の対岸に描かれているのが元柳橋です。元柳橋は、薬研堀にかかる橋で、北側のたもとに柳があったことから柳橋と呼ばれていましたが、神田川の最下流にかかる橋が柳橋と呼ばれるようになったことから元柳橋と呼ばれるようになりました。
薬研堀は江戸時代初期、両国広小路の南側にあった矢ノ倉と称する米蔵に通じる堀でしたが、明治36年に完全に埋め立てられて現在は残っていません。
赤印が回向院です。
青印が元柳橋があった場所です。
なお、緑印辺りに、江戸時代の両国橋が架かっていました。

