湯島天神(新江戸百景めぐり㉟)
昨日は、毎日文化センターの「~山手線一周~ 駅から気ままに江戸散歩」があり、湯島周辺を散歩してきました。
数日前には、長時間雨が降るという予報でしたが、幸いにも昨日は雨は全く降らず、楽しく散歩してきました。
昨日のコースは、御徒町駅 ⇒ 上野風月堂・上野松坂屋 ⇒ 心城院 ⇒ 湯島天神 ⇒ 旧岩崎邸庭園(休憩を兼ねて) ⇒ 常楽院 ⇒ 耕安寺 ⇒ 東大鉄門(てつもん) ⇒ 麟祥院 ⇒ 富士浅間神社 ⇒ 本郷三丁目駅
というコースでした。
ご参加いただい皆様、ありがとうございました。下写真は、湯島天神の社殿前で説明を聞く参加者の皆様です。
昨日ご案内した中に、新江戸百景めぐりに取りあげられている寺社が二つあります。湯島天神と麟祥院です。
そこで、今日は湯島天神についてご案内します。「新江戸百景めぐり」(小学館刊)110ページの第56景で紹介されています。下写真は正面から見た社殿です。
湯島天神は、正式には「湯島天満宮」と言います。以前は「湯島神社」と言いましたが、平成12年3月31日に「湯島天満宮」に改称しました。
湯島天神は、社伝によると、雄略天皇2年(458)に、雄略天皇の勅命により、天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)を祭神として創建されたと伝えられていて、南北朝時代の正平10年(1355)、住民の願いにより菅原道真を勧請したとされています。
太田道灌の信仰もうけ、徳川家康が江戸に入ってからは徳川家の崇拝を受けました。
将軍綱吉の時代に、社殿が火災で全焼した時に、綱吉から金五百両の寄進を受けたこともあるそうです。
湯島天神のご由緒には戸隠神社のことは触れられていませんが、湯島にはもともと戸隠神社が地主神としてお祀りされていて、その御祭神が天之手力雄命(あめのたぢからをのみこと)であり、その後、菅原道真を勧請したとも言われています。その戸隠神社は摂社としてお祀りされています。(下写真)
社殿
社殿は平成7年12月に再建されました。
現在の建築基準法では、神社の建築でっても防火地域では新しく木造の建築物を建てることは認められていません。しかし、湯島天神では、防災設備をととのえ、特に木造建築が許可されたそうです。
社殿の正面の屋根の三角部分が特に大きくなっています。
これは、神社の南側の通りに面した鳥居のある場所が社殿の場所より約1メートルの高いため、「妻」と称される三角部分をより大きくして社殿を立派に見せていまるそうです。
下写真の上部の三角形の部分が「妻」です。
奇縁氷人石(きえんひょうじんせき)
社殿南側の梅林の端に奇縁氷人石と書かれた石柱があります。(下写真)
これは、江戸時代の迷子情報を交換するための石柱です。
この石柱の右側には「たつぬるかた」、左側には「をしふるかた」と記されています。
これは迷子がでたとき、子の名を書いた紙を右側に貼って探し、迷子がいた時、その子の特徴を書いた紙を貼って知らせた「迷子しらせ石標」です。
奇縁氷人石は京都の北野天満宮にあり、湯島天神の奇縁氷人石は、それをモデルにしたものと思われます。
「迷子しらせ石標」は、人通りの多い所に建てられました。現在も日本橋に残っていますし、浅草寺にもありました。
このことからも、湯島天神が人で賑わい、江戸有数の盛り場であったことがわかります。
なお、氷人というのはどういう意味か調べました。「精選版日本国語大辞典の解説」によると次のように書いてあります。
ひょう‐じん【氷人】
〘名〙 (中国、晉の令狐策が、氷上に立って氷の下にいる人と話をした夢を見たところ、索紞(さくたん)が、陽である氷上から陰である氷下に語ったのであるから、誰かのために仲人をするだろうといって、その通りになったという、「晉書‐芸術伝・索紞」に見える故事から) 婚礼の媒酌人。なこうど。月下氷人。また、仲立ちをする人
下写真は、奇縁氷人石を見ながら説明を聞く参加者の皆さんです。
富くじ
湯島天神に大勢の人が集まった理由の一つに富くじが行なわれていたことがあげられます。
湯島天神は、江戸時代は、江戸の三富の一つに数えられほど富くじで有名でした。江戸の三富とは、谷中感応寺、目黒滝泉寺、湯島天神を言いました。
富くじはお寺や神社の修理費用に充てるために興行されました。
このため、興業の許可願いは寺社奉行に出願していましたし、抽籤の際には、寺社奉行の与力が立ち会いました。
庶民に大変人気のあった富くじも、寛政の改革で、松平定信によって制限され、天保の改革では、水野忠邦により全面的に禁止されてしまいました。
筆塚
湯島天神と言うと、「婦系図」の湯島の白梅でも有名です。
そうしたことから、作者である泉 鏡花の「筆塚」が、昭和17年に、里見惇、久保田万太郎らによって建てられました。
『切れるの別れるのッて、そんな事は、芸者の時に云うものよ。……私にゃ死ねと云って下さい。』というお蔦のセリフは非常に有名です。
実はこの有名な湯島天神でのせりふは泉鏡花の原作「婦系図」にはなく、このせりふは「婦系図」が、明治41年に新富座で上演されたときに 付け加えられたものです。
その後、大正3年になって、泉鏡花自身が、お蔦と主税の別れの場面である「湯島天神の場」を、舞台のために書き下ろしています。
表鳥居(東京都指定有形文化財)
湯島天神の鳥居は銅製で、柱の刻銘に江戸時代初期の寛文7年(1667)に建立されたと記されています。その後、何回にわたり修理されたことをしめす刻銘もあります。
昭和45年東京都指定有形文化財に指定されています。
湯島天神のホームページには、鳥居の様式は神明鳥居といわれるものと書いてあります。
鳥居の横木が二重になり、反りをもって、柱が内側に傾いています。横木の上の方を笠木、下の方を島木といいます。鳥居の大きさは、柱の下から上端についた台輪までの長さが3.88m、笠木上端の長さが6.81mだそうです。
上の写真が鳥居の台座部分ですが、台座に唐獅子が飾られていますが、見落としてしまいそうです。
写真の上部に四角い刻銘が写っていますが、ここに寛文6年建立されたこと、その後、寛文11年、宝暦11年、文化6年などに修理されていることが刻まれています。
名所江戸百景「湯しま天神坂上眺望」
歌川広重は、湯島天神を「湯しま天神坂上眺望」で描いています。
湯島天神は台地の上にあるため、東から湯島天神にお参りにするには坂を登る必要がありました。湯島天神に登る坂には男坂と女坂がありました。男坂は急坂で現在は38段の石段があります。下写真は、坂上から見た男坂です。
一方、女坂は、男坂より少し緩やかな女坂があります。
上の広重の浮世絵は、雪の日に女坂から登る人々を正面に据えて描いたものです。右隅に描かれているのが男坂です。
下写真は現在の女坂です。現在の湯島天神周辺はビルが立ち並んでいて、全く眺望は効きませんが、江戸時代は、不忍池が間近に見えたようです。
心城院
湯島といえば天神様ということで湯島天神を多くの人がお参りしますが、湯島天神の男坂の前にある心城院というお寺を拝観する人は少ないだろうと思いますが、拝観する価値のあるお寺ですのでご案内します。下写真が本堂です。
江戸時代は、湯島天神の場合には、喜見院という別当寺がありました。
元禄7年(1694)、湯島天神の別当寺であった喜見院の住職が、道真の信仰していた聖天様を湯島天神境内にお祀りしました。その聖天様は比叡山から勧請したもので、慈覚大師作と伝えられているそうです。
それ以来湯島の聖天さまとして熱心な信者の参詣があり、有名な紀国屋文左衛門も帰依したそうです。 江戸時代の喜見院は相当の境内があったそうですが、明治維新の神仏分離令の影響で廃寺となりました。心城院は、喜見院の隠居所の役割を果たしていて、喜見院も廃寺になるところでしたが、幸いにもその難を逃れることができ、天台宗に属した単独の寺院として歩み出し、寺名を心城院と改めたそうです。江戸時代に喜見院でお祀りされていた聖天様が心城院の御本尊様です。下写真は、心城院の本堂前の参加者の皆さんです。奥が本堂です。
東大震災の時、湯島天神の境内に避難した人々の飲料水となり多くの命を守ったため、当時の東京市長から感謝状を受けたそうです。下写真が「柳の井」です。
赤印が湯島天神です。
青印が心城院です。