赤門(新江戸百景めぐり㊲)
新江戸百景めぐり、今日は、東京大学の赤門についてご案内します。
『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では89ページの第40景で紹介されています。
「赤門」は東大を象徴する門であり、東大の代名詞でもあります。(下写真)

文政10年(1827)加賀藩13代藩主前田斉泰(なりやす)は、
11代将軍徳川家斉の娘溶姫(多くは「ようひめ」と呼びますが「やすひめ」とふりがなされていることもあります)を正室に迎えることになりました。この時に建立されたのが「赤門」です。
江戸時代、三位以上の大名が将軍家から妻を迎える際は、奥向きの住まいは御守殿と呼ばれました。御守殿の門であることから正式には御守殿門と呼ばれますが、朱塗りの門であったことから通称で赤門とも呼ばれました。
三位以上大名に将軍の娘は御守殿と呼ばれ、四位以下の大名に嫁いだ場合には御守殿でなく御住居(おすまい)と呼ばれ、御守殿とは区別されていたとされています。
ちなみに手元にある角川書店発行の「角川新版 日本史辞典」にも、そう書いてあります。
なお、「赤門」(東京大学総合研究博物館発行)の畑尚子氏の「加賀藩邸内の徳川将軍家」によれば、9代将軍家治以前は輿入れ先の家格や相手の官位にかかわらず御守殿と呼ばれていたが、11代家斉の息女から御守殿と呼ばれるのは御三家・御三卿と婚姻を結んだ者に限られるようになった。そして、溶姫の場合は加賀藩からの強い要望により安政3年(1856)に御住居から御守殿に変わったと書いてあります。
以上、御守殿と御住居の区分の違いはあるもの、御守殿が、加賀藩だけに許されたわけではありません。
溶姫の姉の峯姫は水戸家に嫁いでいますが、嫁ぎ先の徳川斉修(なりのぶ)が従三位であったため、やはり御守殿と呼ばれたと「十五万両の代償」(佐藤雅美)に書かれています。
御守殿門は一代限りで対象となる人物がなくなると再建を許されないので、東大の赤門は御守殿門として唯一残された門です。
赤門は、 建築様式は薬医門という形式で、屋根は切妻作りの本瓦葺で、左右に番所があります。
門の屋根上部の棟瓦は葵の紋、軒の丸瓦は前田家の家紋梅鉢となっています。前田家は菅原氏の出身と称しています。そのため、前田家の家紋は天神様の神紋と同じ梅鉢紋となっています。
鬼瓦には大学の学の旧字である學という字が刻まれています。下写真は休日の赤門、潜り門だけが開いています。

赤門の所在地は、元々は現在地より15メートル東にありましたが、明治36年校舎建設のため現在地(つまり西側に15メートルの場所)に移転しました。
その後、幸いなことに関東大震災や空襲も免れることができて、昭和36年に解体修理され、現在は国の重要文化財に指定されています。
加賀藩上屋敷の変遷
東大の本郷キャンパスの中心を占める部分は加賀藩上屋敷、そして東側の東大病院の部分は、加賀藩前田家の支藩である富山藩と大聖寺藩の上屋敷、農学部のある弥生キャンパスや浅野キャンパスが水戸藩中屋敷でした。
本郷の加賀藩江戸藩邸は、元々大久保忠隣の屋敷であったが忠隣が没落したのち、元和2年(1616)・元和3年(1617)頃に拝領し下屋敷として発足しました。
加賀藩の上屋敷は、江戸時代初めの慶長10年~明暦3年(1605~1657)は、大手門の前の辰の口に、その後の明暦3年~天和3年(1657~1683)は筋違橋門内にありました。
その後、5代将軍綱吉の時代 天和3(1683)年に本郷が上屋敷となりました。(いずれも「江戸のミクロモス 加賀藩江戸屋敷」(追川吉生著)によります)
それ以降の加賀藩の江戸藩邸は中山道に沿ってあり、中屋敷は現在の文京区駒込の六義園の近くに、下屋敷は現在の板橋区にありました。下屋敷の跡地には加賀町という名前が現在残っています。
鉄門(てつもん)
東京医学校(現在の東大医学部)が本郷に移転した1876年から法・
文学部が移ってくるまで、赤門は医学部の通用門として使われていたどうです。そのため、東大医学部の紋章は赤門をデザインした紋章となっています。
医学部が移転してきた当初は赤門は通用門でしたが、医学部の正門であったのが鉄門(てつもん)です。
鉄門は、現在、東大病院の近くに再建されていて、先日の江戸散歩でもご案内しました。下写真はその時の写真です。

東京大学医学部の創立は安政5年(1858)5月、神田お玉ヶ池の川路聖謨の屋敷に開設されたお玉ヶ池種痘所までさかのぼります。
お玉ヶ池種痘所は開設したばかりにもかかわらず同じ年の11月に類焼し、現在の秋葉原駅の北東の下谷和泉橋通りに移転しました。
種痘所の門扉は厚い板を鉄板で囲い、鉄板の間を頭の丸い鋲釘で打ちつけ点黒に塗ってあったので、江戸の人々は種痘所を鉄門と呼んでいたそうです。
その後、種痘所は西洋医学所、医学所、医学校、大学東校、東校、東京医学校と改称されました。
そして、明治9年に東京医学校は本郷に移転しました。
本郷に移転した翌年の明治10年に東京医学校は東京大学医学部となりました。
東京医学校の正門は、現在の鉄門の位置から西に約30メートルほどの場所に設置されていました。移転当初は種痘所の門扉も使用されたそうです。
明治17年に法学部と文学部が、その翌年理学部が神田一ツ橋から移転してきたことにより、全学部共通の正門として本郷通り側に現在の正門が造られてからは、医学部正門は鉄門と呼ばれるようになりました。
その後、大正期に鉄門前の民有地が構内に取り込まれたため鉄門は撤去されてしまい、その後、長いこと鉄門はありませんでした。
現在の鉄門は、東京大学医学部の創立150年を記念し、2008年に再建されたものです。下写真が現在の鉄門です。

赤印が赤門です。青印が鉄門です。

