上野不忍池(新江戸百景めぐり㊳)
今日の新江戸百景めぐりでは、不忍池をご案内します。『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では「上野不忍池」として108ページの第55景で紹介されています。
下写真は清水観音堂の舞台の下から撮った弁天堂方面の写真です。

上野寛永寺を創建したのは天海大僧正ですが、天海大僧正は、「見立て」という考えによって、延暦寺周辺の景色を上野に再現しようとしました。
まず、お寺の名前ですが、比叡山延暦寺に模して東叡山寛永寺と称しました。
天海大僧正は、延暦寺に模したのは、名前だけではなく、風景も再現しようとしました。
不忍池を琵琶湖に模しました。琵琶湖には竹生島があり、そこの宝厳寺には有名な弁才天が鎮座してします。そこで、竹生島の弁天様を模しして、不忍池の中に島を築き弁天様をお祀りしました。
不忍池には、元々聖天島という小さな島がありました。その島の脇に備中松山藩藩主の水谷(みずのや)勝隆の協力を得て築かれたのが中島です
琵琶湖と竹生島に見立てられたため、当初は弁天堂に参詣するにも船を使用していたのですが、参詣者が増えるにともない江戸時代に橋がかけられました。下写真は現在の弁天堂です。

弁天堂
弁天堂は昭和20年の空襲で焼失してしまいましたが、昭和33年に再建されました。その弁天堂に鎮座されている弁才天は、谷中七福神の一つですが、「江戸名所図会」によると中島(なかじま)弁才天と呼ばれていて、慈覚大師の作と伝わっているそうです。
御本尊の弁才天は秘仏で、年に一度、9月の巳の日の「巳成金(みなるかね)大祭」にだけ御開帳されます。下写真は弁天堂に掲示されていた「巳成金大祭」の案内です。
大黒堂
弁天堂の北側に、大黒堂があります。豊臣秀吉が護持していた大黒天を祀っているとされています。

聖天島
不忍池に、元々あった聖天島は、その存在を知らない人がほとんどですが、中之島の西北に現在も残されています。(下写真)

しかし、江戸時代の人たちは、不忍池に二つの島があったことはよく知っていたようです。
「江戸名所図会」の不忍池の絵を見ると聖天島が明確に描かれています。
清水観音堂
不忍池に弁才天をお祀りしたのと同じように、京都の清水寺を模して造られたものが清水観音堂です。清水観音堂は、寛永8年(1631)に創建されました。
清水寺といえば舞台造りですので、この清水観音堂も舞台造りとなっています。

清水観音堂は、初めは「擂鉢山(すりばちやま)」に建てられました。
摺鉢山は、その形が摺鉢を伏せた姿に似ていることから名付けられました。(下写真は擂鉢山への登り口から撮った写真です)

ここから土器や埴輪の破片が出土したことから、擂鉢山は前方後円墳だと考えられています。
昭和59年に発掘調査が行われました。それによると現存長70メートル、後円部径43メートル、前方部幅は最大部で23メートル。後円部の道路との比高差は5メートルであると報告されています。この岡の上に、天海僧正により、江戸時代の初め寛永8年(1631)に建立されましたが、寛永寺根本中堂建立のため、元禄7年(1694)に現在地に移築されました。
上野の山に現存する創建年時が明確な建物のなかで最古の建物であり、国の重要文化財に指定されています。
清水観音堂の御本尊は、清水寺から遷座された千手観世音菩薩で、平安時代の比叡山の高僧・恵心僧都の作と伝えられています。
御本尊様は秘仏で年に1日、2月の「初午(はつうま)」の日にだけ開帳されます。
舞台下には、変わった樹形をした松の木があります。この松の丸い部分からは不忍池の弁天堂が見えるようになっています。
これは、歌川広重が描いた「名所江戸百景」のうちの「上野清水堂不忍ノ池」と「上野山内月のまつ」の中に描かれた松を復元したものです。

「上野清水堂不忍ノ池」を良く見ると、月の松は、清水観音堂の下の参道より不忍池側にあることがわかります。

また、「上野山内月のまつ」を見ると右下部分に赤い建物をした弁天堂が描かれていて、その周辺に家が描かれていますが、これらは料理屋だと思われます。
不忍池は現在も蓮が密生していますが、江戸時代も不忍池では蓮が有名で蓮茶飯が名物でした。


