小野照崎神社(新江戸百景めぐり㊵)
新江戸百景めぐり、今日は小野照崎神社をご案内します。
『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、107ページの
第54景で紹介されています
小野照崎神社の小野は御祭神の小野篁(たかむら)の「小野」を表し、「照崎」は、神社が創建された「照崎(現在の上野公園付近)」を表します。
小野照崎神社の御祭神小野篁(たかむら)は、平安初期の漢学者・歌人として有名な人物です。小野篁は初の遣隋使小野妹子の子孫で、美人で有名な小野小町のお祖父さんという説もあります。遣唐副使となったものの大使と争い乗船しなかったため隠岐に流されたこともあります。その後、許されて参議となっています。

小野照崎神社の創建の年代は不明ですが、次のような伝承があります。
小野篁は上野国司の任期を終え、帰洛の途についた際、上野照崎(忍岡、現在の上野公園付近)の景色が良いと讃えました。そこで、仁寿2年(852)小野篁が亡くなったとき、その景色を楽しんだ上野照崎に小野篁の霊をお祀りしました。
上野照崎という地名は現代の私たちにはあまり馴染のない地名ですが、現在のJR鶯谷駅南口にある台東区立忍岡中学校周辺が、昔、照崎と呼ばれていたようです。
下写真は、鶯谷駅南口の駅前ロータリーから撮った忍岡中学校です。

その後、江戸時代をむかえ、寛永2年(1625)忍岡に東叡山寛永寺を創建するにあたって、小野照崎神社を移転することとなり、坂本村の長左衛門稲荷社が鎮座していた現在地に遷座したとされています。
一説には、忍岡から孔子聖廟が昌平橋に移った元禄4年(1691)頃に遷座したのではないかとも言われています。
現在の社殿は慶応2年(1866)に建てられたものですが、関東大震災や東京大空襲などを免れた貴重な建物です。

下谷坂本の富士塚
小野照崎神社境内には富士塚があり、下谷坂本の富士塚と呼ばれています。
富士塚は模造の富士山で、坂本の富士塚は、文政11年(1828)に地元の富士講である東講により築造されたと考えられています。
坂本というのは地名で、小野照崎神社がある場所が江戸時代は坂本村と呼ばれたことによるものです。
富士山信仰は室町時代末期頃に起こり、江戸時代中期には非常に盛んになり、江戸をはじめとして富士講があちこちで結成され、富士塚も多数築かれました。その数は、江戸とその近郊で、50余りあったといいます。しかし、現在まで残っている富士塚は多くありません。

ここの富士塚は高さ約5m、直径約16mです。
富士塚は富士の溶岩でおおわれ、東北側の一部が欠損していますが、原形がよく保存されていて、国の重要有形民俗文化財に指定されています。
赤印が小野照崎神社です。
青印が台東区立忍岡中学校です。

