泉 岳 寺(新江戸百景めぐり㊷)
今日から高輪周辺の新江戸百景めぐりをしたいと思います。高輪といえば泉岳寺をまず思い浮かぶ人が多いと思いますので、最初に泉岳寺をご案内します。
『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では153ページの
第88景で紹介されています。
泉岳寺は、都営地下鉄泉岳寺駅A2出口から徒歩2分で山門に到着します。JR田町駅からですと徒歩20分かかります。
泉岳寺は、赤穂浪士のお墓があるお寺としてあまりにも有名ですが、泉岳寺と言うのはどういうお寺かというのはほとんど説明がされません。
そこで、最初に泉岳寺の説明をしたいと思います。
泉岳寺は慶長17年(1612)に徳川家康が今川義元の孫といわれる門庵宗関(もんなんそうかん)和尚を招いて今川義元の菩提を弔うため、外桜田(現在の警視庁の近く)に創立した曹洞宗の寺院です。
しかし、寛永18年(1641)の寛永の大火によって焼失してしまい、現在の高輪の地に移転してきました。
しかし、高輪泉岳寺の復興がままならないので、3代将軍家光が、毛利家、浅野家、朽木家、丹羽家、水谷(みずのや)家の五大名に手伝いを命じ、高輪の泉岳寺は完成しました。
浅野家と泉岳寺の付き合いはこの時以来のものです。
橋場(台東区)の総泉寺、愛宕(港区)の青松(せいしょう)寺とともに曹洞宗江戸三ヶ寺の一つとして触頭(ふれがしら)となりました。
泉岳寺は、徳川将軍家と縁の深いお寺です。そもそも、泉岳寺の創建は徳川家康の命令によるものです。開山は、徳川家康が幼い頃に人質として保護されていて駿河の家康の三男ともいわれる門庵宗関(もんなんそうかん)和尚です。
そして、泉岳寺という寺号は、徳川家に因み、「源の泉、海岳に溢るる」の意からつけられたと云いますし、山号は「萬松山」といいますが、これは松平の松を取り、「松が萬代に栄ゆる」という意味を持っています。
それでは、境内を順にご案内します。
中 門
泉岳寺の最初に目に入るのが中門です。この門は総欅造りで天保7年(1836)、35世大龐梅庭(だいほうばいてい)和尚の時代に再建されたものです。
また昭和7年に大修理が施されています。「萬松山」の額は中国清代の禅僧・為霖道霈(いりんどうはい)による書だそうです。

山 門
山門は天保3年(1832年)に再建されたものです。
二階部分には十六羅漢が安置され、一階部分の天井には「江戸三龍」のひとつ、銅彫大蟠龍がはめ込まれています。
「泉岳寺」の額は、晋唐の墨蹟研究者であった大野約庵という人による書です。
大野約庵は伊予の人で、名は猷、字は美徽、号を約庵と称し、松山藩の藩士で漢学と書を頼春水・頼山陽父子に学んだ書家で、佐藤一斎の推挙に高輪泉岳寺楼門の篇額「泉岳寺」を揮毫しました。

大石内蔵助銅像
中門の脇には、大石内蔵助の銅像があります。この銅像は、浪曲家の桃中軒雲右衛門の発願により鋳造され泉岳寺に寄進され、大正10年12月14日に除幕したものです。
内蔵助が当時の風俗である元禄羽織を身につけ、連判状を手にして東の空(江戸方向)をじっとにらんでいる姿を表したものです。

本 堂
旧本堂は第二次世界大戦で空襲にあい焼失しました。
現本堂は昭和28年12月14日に落成した鎌倉様式の建築です。
ご本尊は釈迦如来がお祀りされていますが、その他、大石内蔵助の守り本尊である摩利支天(秘仏)などが納められています。
正面に掲げられている「獅子吼」の額は「ししく」と読み、お釈迦様の説法のことを指しています。

赤穂浪士墓地入口
本堂の左手に赤穂浪士の墓地があります。
墓地の入り口の石段の上に門があります。
この門は浅野家の鉄砲洲上屋敷(現・聖路加病院)の裏門で、明治時代に移築されたものです。(下写真)

赤穂浪士の墓地への参道の脇には、「血染めの梅、血染めの石」や「首洗いの井戸」があります。
「血染めの梅、血染めの石」は、浅野内匠頭が田村右京大夫邸の庭先で切腹した際に、その血がかかったと伝えられている梅と石です。 下写真の左手の白い説明板が「血染めの梅、血染めの石」の説明板です。

(下写真)

浅野内匠頭長矩のお墓
墓地の入り口の門を通って、まっすぐ進み、赤穂浪士の墓地の手前を右手に入ると浅野内匠頭長矩のお墓があります。
戒名は「冷光院殿前少府朝散大夫吹毛玄利大居士」と言います。
少府とは内匠寮のことを言い、生前は内匠頭であったことを指します。朝散大夫というのは、官位を指す言葉で五位にある人を言います。
戒名に院殿と大居士が付けられていますが、院殿と大居士があることから罪人としてでなく普通の大名として亡くなった扱いとなっています。

瑤泉院のお墓
こちらが浅野内匠頭長矩の正室瑤泉院のお墓です。
瑤泉院は、俗名阿久里といい、延宝2年(1674)、広島藩浅野家の支藩三次藩浅野家の初代藩主浅野長治の二女として生まれました。長矩の父浅野長直の妹が生んだ娘が阿久利ですので、二人は従兄妹同志ということになります。翌延宝6年、5歳の阿久利は赤穂藩浅野家の屋敷へ移りました。
二人が正式の結婚したのは天和3年で、浅野長矩17歳、阿久利10歳でした。
浅野内匠頭長矩が切腹した時、瑤泉院は取り乱す様子はなかったといいます。
浅野内匠頭長矩の切腹により、赤穂藩浅野家上屋敷から赤坂にある三次藩浅野家の下屋敷に移り、落飾し寿昌院と称しました。後に、この法名が5代将軍綱吉の母桂昌院と一字同じとなることから、瑤泉院に変えています。
それ以降は、浅野内匠頭長矩の菩提を弔いながら余生を過ごし、正徳4年(1714)6月3日なくなりました。41歳でした。

赤穂浪士のお墓
赤穂浪士のお墓は、浅野内匠頭や瑤泉院のお墓がある場所より一段と高いところにあります。
赤穂浪士は、それぞれ、宗派も違い菩提寺も違っていましたが、泉岳寺に一緒に埋葬されているのは、赤穂浪士が一緒に埋葬されるのを願ったからです。
細川家の堀内伝右衛門が書いた記録によると、富森助右衛門が、一緒に埋葬して欲しと希望したと書かれています。下写真が墓地の全体説明図の写真です。

赤穂浪士は、御預けになった大名家ごとに埋葬されています。
赤穂浪士の墓所の最奥部には、大石内蔵助のお墓があります。その左手と手前には、大石内蔵助と同じ細川家に御預けになった人たちのお墓が並んでします。(下写真)

実は赤穂浪士の葬儀は、御預け先ごとに行われたそうです。
最初、細川家の葬儀が行われ、赤穂浪士の遺骸が細川家を出発したのは午後6時30分ごろ、水野家が午後8時、松平家が午後10時、毛利家が午前0時と2時間ずつ違っていたそうです。
これは、泉岳寺から近い順に葬儀を行ったようです。
そして、泉岳寺での葬儀は午後9時から細川家の葬儀が始まり、毛利家が終わったのは午前3時ごろだったそうです。
このように、葬儀が御預けになった大名家ごとに行われたこともあって、お墓も大名家別になっているのではないかと思います。下写真が墓地全体の写真です。

浅野内匠頭長矩のお墓より高い所に赤穂浪士のお墓があります。
普通であれば、上位の人のお墓が奥もしくは上の方にありますが、赤穂浪士の場合にはそうなっていません。
これには理由があります。赤穂浪士が一緒に埋葬して欲しいと希望したため、泉岳寺では、墓地の用地がなかったため、急いで藪を開いて墓所をつくりました。そのため、浅野内匠頭長矩公の墓は下の方となりました。
赤穂浪士の戒名には、「刃」と「剣」がついているのが特徴です。例えば大石内蔵助は「忠誠院刃空浄剣居士」、堀部安兵衛は「刃雲輝剣信士」のように、「刃」と「剣」を織り込んまれています。下写真は大石内蔵助のお墓です。

この戒名は、当時の泉岳寺住職の酬山和尚がつけたものです。これは、赤穂浪士が勇ましいから「刃」と「剣」を適当につけたかというとそうではありません。
碧巌録という本に「碧巌録(へきがんろく)」という文章があります。これから採ったものです。
詳しくは過去に書いた下記記事をお読みください。
「フレーフレー受験者の皆様!(江戸検お題「本当の忠臣蔵」108)」
赤印が泉岳寺です。

