戸山公園(新江戸百景めぐり⑦)付記-穴八幡宮と高田馬場
昨日は、毎日文化センターの「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」で早稲田周辺を散歩してきました。
高田馬場駅に集合したあと、早稲田に向かい、次のようなコースを散歩してきました。
リカーショップ小倉屋 ⇒ 夏目漱石誕生の地 ⇒穴八幡宮 ⇒ 高田馬場跡 ⇒ 水稲荷神社 ⇒ 早稲田大学構内各所 (演劇博物館 ⇒ 大隈庭園 ⇒ 大隈講堂 ⇒早稲田歴史館 ⇒ 大隈重信銅像 ⇒ 早稲田駅
本来は、先週土曜日に開催予定でしたが、台風19号襲来のため順延して昨日開催にしました。
週半ばの天気予報では雨模様でしたが、スタート時には、朝のうちに降っていた雨もあがり、雨に降られずに散歩できました。
ご参加いただいた皆様ありがとうございました。
昨日案内した史跡のなかで、穴八幡宮が、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)の90ページの第41景戸山公園の中に紹介されていますので、今日は、穴八幡宮についてご案内します。下写真は穴八幡宮の社殿です。

〈穴八幡宮の由緒〉
穴八幡宮は、神社の由緒書によれば、平安時代に、八幡太郎義家が奥州の乱を治め凱旋の途中に創建したと言われています。
しかし、新宿区文化財ガイドによれば、「寛永13年(1636)に松平左衛門尉直次という武士が、射術の練習をするため、ここに的山を築き、弓矢の守護である八幡神の小祠を営んだのにはじまる。」と書かれていて、実際は江戸時代の初めに創建されたものと思われます。
江戸時代の名所ガイドブック「江戸名所図会」にも松平直次が的山を築き、八幡宮を勧請したと書かれています。
当時は高田八幡宮と呼ばれていましたが、寛永18年(1641)、宮守の庵を建てるため南側の崖を整地していると、ほら穴が見つかり、そこから金銅の阿弥陀如来像が発見され、それ以降、穴八幡宮と呼ばれるようになりました。
〈高田馬場の流鏑馬(新宿区指定無形民俗文化財)〉
鳥居の脇に、流鏑馬の銅像(下写真)があります。(下写真)

穴八幡宮の流鏑馬は、享保13年(1728)徳川将軍吉宗が世継の家重の疱瘡平癒祈願のため、穴八幡神社へ流鏑馬を奉納したのが最初です。
その後、将軍家の厄除けや若君誕生の祝に高田馬場で流鏑馬が奉納されました。特に元文3年の家治誕生の時のものは、その様子が極彩色の二巻の絵巻物に描かれたものが、穴八幡神社に伝えられているそうです。
明治維新以降中断し、昭和9年(1934)に皇太子(現上皇)誕生祝のため再興され、数回行われたが、戦争のため中断されました。
昭和39年(1964)流鏑馬の古式を保存するため、現在の水稲荷神社境内で復活し、昭和54年(1979)からは都立戸山公園内に会場を移し、毎年体育の日に高田馬場流鏑馬保存会により開催されています。
体育の日は、ちょうど今週の月曜日でしたが、台風19号が襲来した直後であったため、中止になったそうです。下写真は、鳥居の前で流鏑馬の説明を聞く参加者の皆さんです。

〈出現殿〉
「穴八幡宮」の由来となったほら穴がある場所は、江戸名所図会の挿絵にも出現地と書かれています。
現在は、そこに御社殿が造られていて、出現殿と呼ばれています。
内部は一般公開されていません。下写真は、出現殿の前で説明を聞く参加者の皆さんです。
このほら穴は、江戸城に続いており、万一の時には、この穴を通って城外へ脱出するためのものだとのいい伝えが残っているそうです。

〈光松〉
髄神門の東側に、江戸時代、東都十八松のひとつに数えられる松があり、それに八幡大菩薩の使いという山鳩がとまり、夜になると松が青白く光るようになったとの伝説があります。
下写真の参加者の皆さんが見上げている中央の松が「光松」です。

〈布袋像水鉢〉
穴八幡宮には新宿区指定文化財となっている「布袋像の水鉢」があり、そのレプリカが手水舎の脇にあります。
「布袋像の水鉢」は、昔、江戸城吹上の御庭にあったもので、慶安2年社殿竣工の際に徳川家光により奉納されたと言われています。現在、本物の布袋像水鉢がどこにあるか穴八幡宮に質問しましたら、出現殿の中に安置されているとのことでした。下写真は、布袋水鉢を見る参加者の皆さんです。

〈一陽来復(いちようらいふく)御守〉
穴八幡宮では、毎年冬至から節分までの間、期間限定で頒布される「一陽来復御守」が有名です。
一陽来復とは易経での冬至を表す言葉です。
財運・金運アップ、商売繁盛の御利益があるとして、大変人気があります。
右写真の一陽来復御守は800円で、他に一陽来復懐中御守という身につけるものもあり、300円です。
一陽来復御守は、白い紙を丸めたような円筒系の立体的な構造で、中にお祓いを受けた金柑と銀杏が1個ずつ包まれているそうです。金柑の「金」と銀杏の「銀」で「金銀融通」の御利益があるとされています。
この一陽来復御守が頒布されるのは、冬至から節分までの期間です。
頒布初日の冬至の日は、朝5時から夜9時まで授与されますが、早朝から大行列となり、授与されるのに長時間並ばなくてはなりません。下写真が以前授与いただいた一陽来復のお守りです。その時の様子は下記ブログに書いています。
穴八幡「一陽来復御守」 
〈社殿〉
穴八幡の御社殿は昭和20年の空襲で全て焼失してしまいました。現在の社殿は、昭和36年(1961)、御鎮座900年事業として再建され、平成元年に着工し、平成3年に完成したもの、慶安・元禄の設計絵図に基づいて建築されたものです。非常に見事な社殿です。下写真は、穴八幡宮に御参拝に向かう参加者の皆さんです。

高田馬場
穴八幡宮と縁の深い高田馬場もご案内しておきます。
高田馬場は、穴八幡宮の北200メートルほどの西早稲田の交差点の西北部に東西に細長い形でありました。
現在、西早稲田の交差点角に八幡鮨と書かれたビルがあります。(下写真)そのビルの壁面に、新宿区教育委員会の説明板が設置されています。

高田馬場は、高田馬場の地名発祥の地で、江戸時代に馬術や弓の練習場としての馬場がありました。
馬場の場所は、江戸時代初期に徳川家康の側室で将松平忠輝の母である高田殿と呼ばれた茶阿局がこの辺りの風景をこよなく愛し、遊覧の地とした(もしくは庭園としたとも)関係から高田と呼ぶようになったといいます。
下写真は、八幡鮨のビルの壁面に設置された新宿区教育委員会の説明板を見る参加者の皆さんです。

高田馬場は、寛永13年(1636)に幕府持弓頭の松平直次が、この地に的場を築いたのにはじまるといいます。
享保13年(1728)には、8代将軍徳川吉宗の世嗣家重の病気平癒を祈って高田馬場で流鏑馬を開催し、穴八幡に奉納したことから、以後、将軍家若君誕生の折などには流鏑馬が奉納されるようになりました。
享保年間(1716~1753)には馬場の北側に松並木がつくられ、8軒の茶屋があったとされていて、現在も茶屋町通りの名前が残っています。下写真が茶町通りです。

下の浮世絵は、歌川広重の名所江戸百景「高田の馬場」(国立国会図書館のHPから転載させてもらいました)です。
手前の大きな木は松のようですし、奥にも松が描かれています。手前の円形は革張りの的、馬を走らせている武士も描かれています。

〈高田馬場の決闘〉
高田馬場といえば、高田馬場の決闘が有名です。
茶屋町通りに面したところで、堀部安兵衛が叔父の菅野六郎左衛門の決闘の助太刀をしたと言われています。
堀部安兵衛とは、吉良上野介の屋敷に討ち入った赤穂浪士四十七士の一人、堀部安兵衛で、当時は中山安兵衛といっていました。
元禄7年2月11日、伊予国西条藩士・菅野六郎左衛門と同僚の村上庄左衛門が、果たし合いを高田馬場で行うこととなりました。その話を聞いた安兵衛は助っ人として高田馬場に行き、菅野を助けて、村上庄左衛門ほか3人を斬り殺したといいます。安兵衛と菅野六郎左衛門は、叔父・甥の契りを結んでいたとも実の叔父・甥ともいわれています。
当時、安兵衛は牛込に住んでいたといい、そこから高田馬場へ向けて走り続け、馬場下まで駆けつけたとき。近くにあった酒屋に立ち寄り、酒で喉を潤したといいます。
その店は現在も「リカーショップ小倉屋(こくらや)」の屋号で酒店を営んでいます。(下写真)

この時安兵衛が酒を飲んだ升が現在も残されているようで、店内に写真が掲示されています。下写真が、店内に掲示されている五合升の写真です。

この安兵衛の評判を聞いた赤穂藩江戸留守居役堀部弥兵衛は、安兵衛に養子となることを強くお願いしました。それに応じて娘婿となった安兵衛は、それまでの中山安兵衛から、堀部姓を名乗ることとなりました。そして、赤穂浪士の一人として吉良邸に討ち入りました。
堀部安兵衛の功績をたたえるため、明治43年に「堀部武庸(たけつね)加功遺跡之碑」が馬場の隅に建てられましたが、昭和46年水稲荷神社参道に移されました。下写真は、「堀部武庸加功遺跡之碑」の説明を聞く参加者の皆さんですが、右端が石碑です。

赤印が穴八幡宮です。
青印が高田馬場の説明板がある場所です。
オレンジ印が茶屋町通りです。
緑印が「堀部武庸加功遺跡之碑」です。
紫印がリカーショップ小倉屋です。

