元和キリシタン遺跡(新江戸百景めぐり㊺)
新江戸百景めぐり、今日は、元和キリシタン遺跡をご案内します。『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では159ページの第95景で紹介されています。元和キリシタン遺跡は、JR田町駅から徒歩7分の第一京浜沿いにある住友不動産三田ツインビル西館の裏側(西側)にあります。
浜松町駅前にから泉岳寺にむかうと「札の辻」交差点になります。
下写真は田町駅側から見た札の辻の交差点とその南側方向を撮った写真です。下写真の中央の高いビルが住友不動産三田ツインビル西館です。その西側に元和キリシタン遺跡はあります。
元和キリシタン遺跡は、元和9年(1623)12月4日、イエズス会のデ・アンジェリス神父、フランシスコ会のガルベス神父、原主水をはじめとする50人が処刑された場所です。
最初に一般信徒たちが殺害され、次いで2人の神父と原主水が炎の中で神に命を捧げたといいます。
原主水は家康の小姓でしたが、駿府城を追放され、江戸市中に潜伏していたところを捕えられました。
同じ年の12月24日には、殉教者の妻と子どもたちの24人が、同じように市中を引き回しされた上、ほぼ同じ場所で処刑されました。
その後も、札の辻近くで、キリシタンの処刑が行われています。
札の辻は東海道から江戸への正面入り口で、高札場であったため、多くの人が江戸に入るために通過しました。小高い丘となっていたこの地で処刑されたのは、見せしめのためでした。
智福寺
元和キリシタン遺跡のある場所は、処刑場だったことから長いこと空地となっていました。そこに、浄土宗の智福寺が建てられました。
智福寺は、寛永2年(1625)、桜田元町に光誉一空(こうよいっくう)上人によって開かれた浄土宗のお寺です。その後、芝の田町に移転しましたが、智福寺がいつ頃移転したのかは、はっきりしていないようです。
ここに移転したのは処刑された人々の慰霊のためだったようです。
その智福寺は、明治になってから、明治44年に崖崩れにあい、さらに大正14年にも崖崩れで本堂・庫裡が倒壊、墓地も埋没するという被害にあっています。
そして、昭和20年5月の空襲でも、建物が全焼してしまいました。
こうした災害が多かったため、田町からお寺を移すことになり、昭和41年、練馬区上石神井に移転しました。智福寺はまだ訪問していないので、写真はありません。
カトリック高輪教会
智福寺が上石神井移転する前の昭和31年に、智福寺境内に、「江戸の殉教者顕彰碑」がカトリック信徒によって建てられました。
その石碑は、智福寺移転の際に、聖マリア学園に移され、その後カトリック高輪教会に移され、現在もカトリック高輪教会にあります。下写真がカトリック高輪教会です。
高輪教会はJR品川駅から真西にむかって坂を上っていくと南側に高輪教会があり、道路からも「江戸の殉教者顕彰碑」を見ることができます。
下写真の左が顕彰碑です。右側の白いものが「江戸の大殉教」と題された説明板です。
済海寺
『新江戸百景めぐり』(小学館刊)には、済海寺についても書いてありますので、済海寺もご案内します。
元和キリシタン遺跡の隣にあると『新江戸百景めぐり』(小学館刊)には書いてありますが、これは不正確です。地図の上では隣かもしれませんが、斉海寺と元和キリシタン遺跡の間には、高い崖があり、以前は、ぐる~っと回らないといけませんでした。しかし、現在はエレベーター塔が建てられていて、エレベーターを利用して移動することができます。
下写真がエレベーター塔です。
元和7年(1621)に越後長岡藩初代藩主牧野忠成と念無聖上人によって創建されました。
そのため、江戸時代は越後長岡藩牧野家の菩提寺でした。
しかし、昭和57年、長岡の悠久山蒼柴(あおし)神社への改葬が行われ、現在は、合祀墓が残るだけとなっています。
また、伊予松山藩松平家の江戸での菩提寺であり、松平家から1500坪の土地の寄進を受けたこともあったようです。
伊予松山藩松平家は久松松平家ともいい、家康の生母於大の方の再嫁先で、譜代の名門です。明治以降は、久松家と名前を変えています。
下写真が山門前から写した済海寺です。
済海寺は、安政6年(1859)にフランス公使館となり、明治7年まで続きました。
安政5年(1858)9月に日仏修好通商条約が締結され、安政6年(1859)8月に初代フランス駐日総領事ド・ベルクールが江戸に到着し、領事館が済海寺に設置されることになりました。
文久元年(1861)には公使館となって明治3年4月に公使館が引き払われるまで、書院、庫裡が宿館として使用されました。
文久3年に着任した公使ロッシュがここを拠点にして活発に幕府支援の外交を展開しました。下写真が港区教育委員会設置の説明板です。
札の辻
元和キリシタン遺跡の前にある札の辻についてもご案内しておきます。
札の辻は、江戸時代のはじめ、ここに高札場が設けられていたことから札の辻と呼ばれるようになりました。
「札の辻」という地名は固有名詞ではなく一般名詞です。そのため、各地の城下町には、札の辻という地名が残っています。
埼玉県の川越市にも「札の辻」という地名が残っています。
また、高札場というのは、幕府の法令などを掲示する場所で、江戸市中においては、各所にありました。
その中で最も重要な高札場が日本橋南詰にあり、その他主要な高札場が江戸市中に5か所あり合わせて六大高札場と呼ばれていました。
六大高札場とは日本橋南詰、常盤橋外、浅草橋内、筋違橋、半蔵門外と高輪とされていて、高輪大木戸もその一つでした。
元和2年(1616)には、芝口門が現在の札の辻に建てられて、江戸の入口としての形式を整えました。
そして、高札場は、後に 天和3年(1683)に南方の高輪(後の大木戸の場所)に移されたと港区教育委員会の説明板には書かれています。
(下写真が港区教育委員会の説明板です)
なお、高輪大木戸の東京都教育委員会の説明板では、天保2年(1831年)移設と書いてあります。どちらが正しいのかは確認できていません。
高輪大木戸に高札場が移設された後は、ここは「元札の辻」と呼ばれるようになりました。そして、明治維新後は、「元」を略して「札の辻」と呼ばれるようになったそうです。
赤印が元和キリシタン遺跡です。
青印が札の辻です。緑印が済海寺です。