湯島聖堂(新江戸百景めぐり㊼)
江戸検まで、あと3日となりました。
受検される方は、最後の追い込みに頑張っていることだと思います。
残り期間、全力で頑張って、合格を勝ち取ってください。
さて、今日の新江戸百景めぐりは湯島聖堂をご案内します。
『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、76ページの第31景で紹介されています。
下写真は江戸時代から残る入徳門です。

湯島聖堂の歴史
湯島聖堂は、徳川家康のブレーンであった林羅山が、江戸時代初期の寛永9年(1632)に、上野の自分の屋敷内に孔子廟を建設したのが始まりです。
そして、5代将軍綱吉が、元禄3年(1690)に、孔子廟を湯島に移し、湯島聖堂ができました。将軍綱吉は、犬公方として有名ですが、実は、大変な学問好きな将軍で自ら学ぶだけでなく、家臣にも講義するほどの打ち込みようでした。そこで、儒学を盛りたてるために、湯島聖堂を建てたそうです。
しかし、13年後の元禄16年(1703)には、大火のため、主要な建物が全焼し、翌年の宝永元年(1704)大成殿などを再建復旧しました。このとき復旧した入徳門は、現在も残っています。
そして、100年程時代がさがった寛政9年(1797) に昌平坂学問所(または昌平黌とも言います)が設置され、幕府直轄の学校となりました。
「昌平」とは、孔子が生まれた村の名前からとったもので、昌平坂という地名は現在も聖堂の東側の坂に残っています。下写真が昌平坂です。

明治維新を迎えると聖堂・学問所は新政府が所管するようになります。
当初、学問所は大学校・大学と改称されながら存続していましたが、明治4年(1871)に廃止されて文部省が置かれることとなりました。
そして明治5年(1872)には東京師範学校、7年(1874)には東京女子師範学校が設置されました。両校はそれぞれのちに、明治19年(1886)、23年(1890)】高等師範学校に昇格したのち、東京師範学校は現在の筑波大学、そして、東京女子師範学校はお茶の水女子大学へと発展しました。
さらに、ここには、わが国最初の博物館(現在の東京国立博物館)が置かれました。また、わが国初の図書館である「書籍館」が置かれました。まさにわが国の文教政策の源流としての重要な役割を果たしてきました。
湯島聖堂は、江戸時代に何回もの(元禄12年、安永元年、天明6年)大火に見舞われた後、関東大震災により入徳門と水屋を残し、すべて焼失してしましいました。
現在の多くの建物は、昭和10年に再建されたものです。
聖堂の敷地は約4300坪あり、いろいろな建物が並んでいます。
湯島聖堂の回り方は秋葉原から向い仰高門から入る方法、お茶の水から向い杏壇門から入る方法とあります。今日は、仰高門から順にご案内します。
仰高門
秋葉原駅から向かって最初にある門が、「仰高門」です。この門は、聖堂の第1の門で、昭和10年(1935)に再建されたものです。

仰高門の仰高という言葉は、論語の中に出てくる言葉です。
孔子がどんな人物か訪ねられた弟子の顔回が「先生は仰げば仰ぐほど高さをますすばらしい人です」と答えたことに由来するそうです。
現在の額の字は、徳川圀順(くにつぐ)氏によるものです。徳川圀順氏は水戸徳川家第13代当主で貴族院議長、日本赤十字社社長を務めました。
楷の樹
仰高門を入ると正面に「楷の樹(かいのき)」があります。漢字の書体で、楷書という書き方がありますが、その語源となった木です。

漢字は楷書、行書、草書という順で字がくずされていき、楷書が一番整然としています。楷の木は、枝が整然としているので、楷書の語源になったと言われています。
それだけでなく、中国では、楷と孔子は切り離すことができないものとなっている木です。それは、楷は、中国山東省の曲阜の孔子の墓所に植えられているからです。最初に孔子の弟子の子貢が植えたと伝えられている木で現代まで植えつがれているそうです。
楷の木は、中国では殆ど全土に生育しています。しかし、日本に到来したのは大正4年です。曲阜から種子を持ち帰り、苗に育成し、儒学に関係深い所に植えました。現在、日本では非常に少ない木として珍重されています。
孔子銅像
楷の木の右手に非常に大きな孔子の像があります。
この孔子像は、昭和50年に台湾の台北ライオンズクラブから寄贈されたものです。
高さは4.57メートルあります。重さは1.5トンあるそうです。
孔子の銅像では世界最大のものだそうです。

入徳門(にゅうとくもん)
入徳門は、将軍綱吉の晩年になる宝永元年(1704)に建築され、その後の大火や関東大震災も免れた聖堂内で数少ない木造建築物です。もう建築以来300年を超えています。
入徳とは、「大学」という本にある「大学は孔氏の遺書にして、初学(しょがく)の徳に入(い)る の門なり」によるそうです。
「入徳門」の額は、門を建設した当時に能書で有名であった寺明院基輔の書いたものです。
下写真は、入徳門から見た杏壇門、さらにその奥に大成殿が見えています。つまり、入徳門、杏壇門、大成殿は一直線上にあります。

杏壇門
入徳門の正面にある門は杏壇門といいます。
中国山東省の曲阜で孔子が教えていた講堂跡に建てられた門の名前が杏壇門です。
講堂跡の周囲に杏を植えられていたので、杏壇門と名づけられたようです。杏壇の杏はあんずのことで、湯島聖堂もそれにちなんでいるそうです。
鉄筋コンクリート造りで、昭和10年に再建されたものです。額の字は徳川宗家第16代の徳川家達公の書いたものです。

大成殿
大成殿は、孔子が祀られているところです。孔子を祀った建物は、上野にある頃は先聖殿と呼ばれました。先聖とは孔子のことを言います。その後、湯島に遷った時に、大成殿に変更されました。

大成という言葉は「孟子」という本の中から取られた言葉です。「孟子」という本の中に、「孔子をこれ集大成という」という文章があり、それから大成という言葉がとられています。
なお、「集大成」という言葉があります。この言葉は多くのものを集めて、一つのまとまったものにすることを指し、何々を集大成するという風に使われますが、もとは孔子のことをいったようです。
湯島聖堂の大成殿の額は、元々の額は将軍綱吉が書いていたそうです。現在の額は、昭和の時代に海軍軍令部総長を務めた伏見宮博恭(ひろやす)王の書いたものです。
大成殿は、土曜日曜祝日のみ公開されます。
赤印が湯島聖堂大成殿です。
青印が仰高門です。
緑印が入徳門です。

