池上本門寺その1(新江戸百景めぐり㊾-1)
江戸検が終わりましたが、新江戸百景めぐりは、まだ途中ですので、引き続き「新江戸百景めぐり」(小学館刊)で紹介されている寺社等をご案内していきます。
再開の初めに、前回の記事で、総門の扁額の筆跡で江戸検受検者を悩ませた池上本門寺をご案内します。
池上本門寺は、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、145ページの第82景で紹介されています。
池上本門寺は、非常に見どころの多いお寺ですので、訪ねるときには、十分余裕を持っていくとよいと思います。私は2時間かけて回りましたが、見どころすべてを見ることができませんでした。
そんなに見どころの多い池上本門寺ですので、2回に分けてご案内します。初回は、建造物をご案内していきます。
下写真は本堂です。
池上本門寺は、東急池上線の池上駅から徒歩10分の場所にあります。池上駅からは一本道ではありませんので、池上駅を下りたら道順をよく確認してから出発することをお勧めします。
池上本門寺は、正式には長栄山本門寺といいます。その山号の由来は、「法華経の道場として長く栄えるように」という祈りを込めて日蓮聖人が名付けたものです。
池上本門寺は、日蓮聖人が今から鎌倉時代後期の弘安5年(1282)10月13日に亡くなった場所に建てられた寺院です。
日蓮聖人は、弘安5年9月8日、9年間棲みなれた身延山に別れを告げ、病気療養のため常陸の湯に向かう途中、武蔵国池上の豪族池上宗仲の館で亡くなりました。
そして大檀越の池上宗仲が、日蓮聖人が亡くなった後、法華経の字数(69,384)に合わせて約7万坪の寺域を寄進し、それ以来「池上本門寺」と呼ばれています。
池上本門寺は、昭和20年4月15日の空襲で多くの建物が焼失していますが、奇跡的に総門・経堂・五重塔・多宝塔などが炎上を免れて、現在も昔の姿を留めています。下写真は総門です。
総門
総門は、池上本門寺にお参りする際に最初に通る門で、元禄年間に建立されたと伝えられていて、昭和20年4月15日の戦災を免れた数少ない建物です。
総門の扁額「本門寺」は、前回書いたように寛永の御三筆の一人である本阿弥光悦の筆によるものです。ちなみに、この扁額は門が建てられた時期より古く、寛永4年(1627)に書かれたものだそうです。
現在本物は、霊宝殿に所蔵されていて、総門に掲げれられているものは複製です。(下写真が現在の扁額です)
本阿弥光悦の扁額は、下記池上本門寺のホームページの境内案内のうちの総門をクリックするとみることができます。
池上本門寺 ウェブサイト
上記をクリックすると池上本門寺のトップページにとびます。トップページの最上段の「知る」の中に境内案内の項目があります。
総門の柱等がきれいですが、平成30年9月に建造当初の姿に復刻・改修されたものです。
此経難持坂 (しきょうなんじざか)
総門を入ると正面に急な坂が見えてきます。この坂が此経難持坂(しきょうなんじざか)です。
この坂は、加藤清正が寄進したものです。加藤清正は、熱心な法華信者でした。加藤清正は、母の第7回忌にあたる慶長11年(1606)、追善供養のため、祖師堂を建立寄進していることから、その時に築造されたものと考えられています。
仁王門は、昭和20年4月15日の空襲で灰燼に帰し、仁王門は昭和52年に再建されました。
旧仁王門は、慶長13年(1608)に2代将軍秀忠が五重塔と共に建立したもので、桃山期の豪壮な門として旧国宝に指定されていました。
旧扁額「長栄山」は本阿弥光悦が書いたもので関東三額の一つであった、そうです。
現在の扁額「長栄山」の「栄」の字は旧字だが、伝統的な慣習で、火伏せのため、冠りを「火」2つでなく「土」2つとしてあるそうです。
大堂(だいどう)
大堂は、日蓮聖人をお祀りする建物です。旧大堂は、昭和20年4月15日の空襲で焼けてしまい、昭和39年に再建されたもので鉄筋コンクリート造りの建物です。
旧大堂は、慶長11年(1606)、熱心な法華信者として有名な加藤清正が、母の七回忌追善供養のために建立したもので、間口25間の堂々たる建築で、加藤清正が兜をかぶったまま縁の下を通ることができたと伝わっています。
その壮観さから、江戸の人々は「池上の大堂」と称し、これに対して、上野(寛永寺)は中堂、芝(増上寺)は小堂と呼んだといいます。
また、旧扁額「祖師堂」は本阿弥光悦筆であったそうです。
その祖師堂は、宝永7年(1710)に焼失し、享保8年(1723)、8代将軍吉宗の用材寄進で、大岡越前守を普請奉行として、当時の倹約令に従い間口13間に縮小されて再建されましたが、旧祖師堂は、昭和20年4月15日の戦災で焼失しました。
経蔵
大堂の左手(西側)に経堂があります。
現在の経堂は、天明4年(1784)に建立されましたが、それ以前に2回建立されていたようです。
この経堂は、昭和20年4月15日の空襲の際に焼失を免れました。
本殿
本殿は、大堂の北側にあります。
昭和20年4月15日の空襲で焼失した釈迦堂を再建したのが本殿です。元々、祖師堂の左隣にありましたが、再建にあたって境内の奥の方へ移されました。
正面内陣にある釈迦仏の胎内には、インドのガンジー伝来で故ネール首相より寄贈された釈尊の真舎利2粒が奉安されているそうです。
日蓮聖人御廟所
境内の最も奥にあるのが日蓮聖人御廟所です。日蓮聖人の遺灰と御骨を奉安しているお堂です。かつては昭和6年に建てられた御真骨堂がありましたが、昭和20年4月15日の空襲で焼失し、昭和54年に再建されました。
多宝塔
大堂から西に下る大坊坂と下る途中に北側に大きく見えてくるのが多宝塔です。
この多宝塔は、日蓮聖人の尊骸を荼毘に付した蹟に建つ供養塔です。
日蓮聖人の550遠忌を期に、文政11年(1828)に上棟、文政13年(天保元年)に開堂供養されています。
石造りの基壇の上に木造宝塔が建っています。総高17・5メートルあり、漆や彩色によって華やかな装飾が施されている堂々たる多宝塔です。
国の重要文化財に登録されています。
五重塔
五重塔は、仁王門をくぐると右手に見えますので、すぐわかります。
関東には、幕末以前の五重塔が4基ありますが、この塔は、慶長12年(1607)に建立された一番古い塔です。
文禄2年(1593)に、徳川秀忠が疱瘡にかかり、一命も危うい容態におちいってしまいました。その時、熱心な法華信者であった乳母岡部局(のち正心院)が、大奥より池上本門寺に日参し、「心願が成就したあかつきには御礼に仏塔を寄進する」とひたすら祈った甲斐あって、秀忠は快癒しました。
秀忠が将軍となった後、慶長12年(1607)に、その御礼と武運長久を祈って、五重塔が建立されました。
当初、大堂の右手前、現在の鐘楼堂と対の位置に建てられましたが、建立直後の慶長19年(1614)の大地震で傾き、元禄15年(1701)、5代将軍綱吉の命で現在地へ移築、修復されたといいます。