雑司ヶ谷鬼子母神(新江戸百景めぐり51)
新江戸百景めぐり、今日は、雑司ヶ谷鬼子母神をご案内します。『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では、146ページの第83景で紹介されています。下写真が鬼子母神堂遠景です。

鬼子母神(きしもじん)とは、
鬼子母神はインドの神様で訶梨帝母(カリテイモ)とよばれ、王舎城(オウシャジョウ)という夜叉神の娘で、多くの子供がいました。その数は500人とも1000人ともいわれます。しかし大変乱暴な神様で、人間の子供たちをとって食べるので、人々から恐れられました。
お釈迦様は、その過ちをやめさせるため、鬼子母神が大変かわいがっていた末っ子を隠してしまいました。その時、鬼子母神は大変嘆き悲しみました。そこで、お釈迦様は、「千人のうちのたった一人の子どもを失ってもこのように嘆き悲しむ。それほど多くの子どもを持たない人間の一人の子ども食ってしまったら、その父母の嘆きはどんなに大きなことだろうか。」と戒めました。
鬼子母神ははじめて今までの過ちを悟り、お釈迦様に帰依し、その後安産・子育の神となることを誓い、人々に尊崇されるようになったとされています。
ここの鬼子母神像は、鬼形ではなく、吉祥果(ざくろ)を持って幼児を抱いた菩薩形の美しいお姿をしているので、鬼という字もとくに角のつかない鬼の字が使われています。 下写真は鬼子母神堂に掲げられている額ですが、角のない鬼の字となっています。

雑司ヶ谷鬼子母神のご由緒
雑司ヶ谷鬼子母神堂におまつりされている鬼子母神(きしもじん)の像は室町時代の永禄4年(1561年)1月16日、清土(せいど;文京区目白台)辺りより掘りだし、星の井(清土鬼子母神境内にある三角井戸)あたりでお像を清めた後、東陽坊(後、大行院と改称、その後法明寺に合併された)という寺に納めたものです。
鬼子母神像が出現した場所には、現在、清土(せいど)鬼子母神堂があり、その境内に星の井もあります。星の井は三角形をした珍しい井戸です。(下写真)

なお、清土鬼子母神堂は、雑司が谷七福神のうち吉祥天をお祀りしています。下写真の左が星の井で、右手の幟が立っているところに吉祥天が鎮座しています。

東陽坊の一僧侶が、その霊験顕著なことを知って、ひそかに像を自分の故郷に持ち帰ったところ、意に反してたちまち病気になったので、その地の人々が大いに畏れ、再び東陽坊に戻したとされています。
その後、信仰はますます盛んとなり、安土桃山時代の天正6年(1578)「稲荷の森」と呼ばれていた現在地に、村の人々がお堂を建ててお祀りされました。
鬼子母神堂
現在の鬼子母神堂の本堂は、本殿が寛文4年(1664)に加賀藩3代藩主前田利常の娘で、安芸藩主浅野家2代藩主(浅野宗家としては3代目)浅野光晟に嫁いだ満姫(自昌院殿英心日妙大姉)の寄進により建立されたものです。
その後 拝殿と幣殿(相の間)は元禄13年(1700)に建立されました。
鬼子母神堂は、平成28年7月25日、国の重要文化財に指定されました。

上川口屋
鬼子母神堂への参道の左手にレトロな感じの駄菓子屋さんがあります。「上川口屋」です。この上川口屋は、創業が天明元年(1781)と言いますので、創業以来330年以上の老舗中の老舗です。

女将さんの内山様、大変気さくな方でいろいろなことを教えていただきました。内山さんの話では、もともとは、川口屋という飴屋さんだったそうですが、あまりにも繁盛して川口屋と名乗るお店が多くなったので、最初という意味で「上」の字を付けたそうです。

また、江戸名所図会の「雑司ヶ谷鬼子母神」を描いた挿絵が下写真ですが、そこに「あめや」と書かれているのが、上川口屋とのことです。

武芳稲荷神社
鬼子母神境内に武芳稲荷神社があります。創建年代ははっきりしませんが、雑司ヶ谷鬼子母神縁起によれば、天正5年に、稲荷の森と言われていた現在地に鬼子母神像を安置したとされているたま、それ以前に鎮座していたと考えられる鬼子母神の地主神です。
現在の社殿は、昭和42年に建立されたもので、鳥居25本は昭和45年に奉納されたものです。このお稲荷さんは出世稲荷とも呼ばれ、地元の多くの人に信仰されています。

雑司ヶ谷鬼子母神のイチョウ
鬼子母神の境内には、樹高30メートル、幹周8メートルの大きなイチョウの木があります。都内のイチョウでは、麻布善福寺のイチョウに次ぐ巨樹と言われていて、室町時代の応永年間(1394~1428年)に僧日宥(にちゆう)が植えたと伝えられています。

鬼母神大門ケヤキ並木
東京メトロ雑司が谷駅や都電荒川線の鬼子母神前駅からの参道に約100メートルのケヤキ並木があります。
このケヤキは、戦国時代の天正(1573~1591)の頃、雑司谷村の住人長島内匠が、鬼子母神へ奉納のため植え付けたものと言われています。
推定樹齢600年を超える古木は、昭和10年代には19本が確認されていたそうですが、道路整備等のため伐採され、現在は参道西側に3本、東側に1本だけとなりました。
伐採された箇所には、地元有志や豊島区、東京都による植え替えが行われ、ケヤキ並木の景観は今も残されています。
古木となった4本のケヤキは、目通り幹囲5~6メートルの巨木で、東京都の「天然記念物」に指定されています。

茗荷屋
雑司ヶ谷鬼子母神の門前には、参詣客を当て込んで料理屋、茶屋、土産物屋などが軒を連ねていました。
その中で、特に有名な料理屋が「荷屋(みょうがや)」です。
この茗荷屋は、歌川広重の「江戸高名会亭尽」の中の「雑司ケ谷之図」(下写真)に描かれるほど、江戸で知られた料亭でした。(なお、下写真は国立国会図書館のものを転載させていただきました。)
料亭の前の大きな木は、ケヤキの木のように見えますがいかがでしょうか?

この茗荷屋は、慶応4年2月17日、一橋家家臣など17名が集まり、上野寛永寺に謹慎していた徳川慶喜の助命嘆願などを相談しました。この会合が後の彰義隊の発足につながります。いってみれば、彰義隊発祥の地ともいうべき場所が雑司が谷の茗荷屋です。
赤印が雑司ヶ谷鬼子母神です。
青印がケヤキ並木です。
緑印が清土鬼子母神堂です。

