神田川(新江戸百景めぐり53)
新江戸百景めぐり、今日は、神田川についてご案内します。
『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では45ページの第6景で紹介されています。
現在、神田川は、三鷹市井の頭池を水源とし、隅田川に合流する延長約25kmの1級河川を言います。しかし、江戸時代には、神田川の上流は神田上水、中流は江戸川とよばれました。
そして、江戸川と外堀の合流点(現代の飯田橋付近)から、両国橋近くの隅田川合流点まで神田川と言いました。
下写真は昌平橋からみた神田川です。神田川の上に架かっている橋はJR総武線の橋梁です。

船河原橋
飯田橋は、JR飯田橋駅東口を出ると目の前に見える橋で、名前は大変有名ですが、明治14年に、外堀に架けられたため、江戸時代には、飯田橋はありませんでした。 江戸時代には、神田川は、飯田橋付近で外堀と合流していましたが、外堀には橋がなくて、神田川にだけ船河原橋がありました。この船河原橋より下流が神田川でした。船河原橋は、どんと橋とも呼ばれました。下写真は現在の船河原橋です。左手奥がJR飯田橋駅です。駅の北東方向から撮った写真です。

現在の船河原橋は、飯田橋と一体となっていてわかりにくくなっています。下図は、飯田橋付近の地図ですが、写真の左上がJR飯田橋駅です。そして、中央に飯田橋と船河原橋が描かれています。
つまり飯田橋の下流にかかる橋が船河原橋ですが、さらに正しくは右手の神田川に架かる橋も船河原橋と呼ばれています。

お茶の水
神田川は、元和2年(1616)に外堀の役割を兼ねて人工的に開削されました。それ以前の川は、平川と呼ばれ、現在の日本橋川の川筋を流れて日比谷入江に注ぎ込んでいました。
それを隅田川に流すために、神田山とよばれていた御茶の水付近の台地を切り開いて、人工の堀が造られました。
武江年表の元和2年の項には「10月 神田川掘割ならび堤を築(ちく)せらる。」と書かれています。
この開削には仙台藩伊達家が、工事にあたったので仙台堀ともよばれました。
工事によって開削された御茶ノ水付近は、中国の赤壁に似ていたおとから「小赤壁」とも呼ばれました。
下写真は、現在の御茶ノ水橋から見た上流側の様子です。

明暦の大火後の万治3年(1660)に幕府は伊達綱宗に神田川の拡幅を命じました。この工事は万治4年に完成し、この工事により現在の飯田橋まで船が通うことができるようになりました。
柳原の土手
お茶の水の溪谷をすぎた神田川の下流には、神田川の南側つまり江戸市中がわに洪水予防のため土手が築かれました。
千代田区教育委員会の説明板によれば、筋違橋から浅草橋までの約10町(約1.1キロ)の間の土手の上に柳が多く植えられていたため「柳原の土手」と呼ばれました。
これは、太田道灌が江戸城の鬼門除けに柳を植えたといわれており、その後、享保年間のはじめに8代将軍徳川吉宗が、柳が枯れて柳原という名前だけがとなっていたため、再び柳を植えさせたとも言われています。
「江戸名所図会」には、「柳原の封彊(どて) 筋違橋より浅草橋へ続く。その間、十町ばかりあり。享保年間、このところの堤にことごとく柳を栽えさせらる。堤の外は神田川なり。また、この堤の下に、柳森稲荷と称する叢祠あり。ゆえに、この地を稲荷河岸と呼べり」と書かれています。
この柳原土手に沿った地域は、江戸時代中ごろまでは大名・旗本らが住んでいましたが、その後、次第に商人や職人が住む町地となり、土手のそばには古着などを扱う露店が設けられ、古着屋が多く集まっていました。
柳原の土手は、明治6年に崩され、現在は、その名残りはまったくありません。和泉橋の南側に、千代田区教育委員会が建てた説明板が建てられているだけです。(下写真)

柳橋
神田川が隅田川に合流する地点に架かっている橋が柳橋です。
江戸中期当時は神田川河口の下柳原同朋町(現在の中央区)と対岸の下平右衛門町(現在の台東区)の間は渡船で往来していましたが不便なため、柳橋が元禄11年(1698)に建設されました。
明治20年に鋼鉄橋になり、その後の関東大震災にて焼失したため、昭和4年に現在の橋が完成しました。下写真が現在の柳橋です。

神田川が大川にそそぐところにあったことから、柳橋は、当初は「川口出口の橋」(かわぐちでぐちのはし)と呼ばれていましたが、橋のほとりに柳が植えられていたことから、いつしか「柳橋」と呼ばれるようになりました。
赤印が船河原橋です。
青印が和泉橋です。
緑印が柳橋です。

