昨日は、毎日文化センターの「~山手線一周~駅から気ままに江戸散歩」で、秋葉原駅から浅草橋駅まで散歩してきました。
昨日は、11月初旬の陽気で、日中はまったく寒さを感じることなく、快晴のもと、楽しく散歩してきました。
ご参加いただいた皆さんありがとうございました。
昨日のコースは、次のようなコースでした。
【ルート】秋葉原駅 ⇒ 柳森神社 ⇒ 和泉橋(&柳原の土手) ⇒ 津藩藤堂家上屋敷跡 ⇒ 防火守護地の碑 ⇒ 金綱稲荷神社 ⇒ 和泉公園(休憩) ⇒ 三井記念病院・対馬藩宗家上屋敷 ⇒ 蓬莱園跡 ⇒ 甚内神社 ⇒ 鳥越神社 ⇒ 浅草天文台跡(&蔵前) ⇒ 浅草橋駅
このコースの中には、『新江戸百景めぐり』(小学館刊)で紹介されている柳森神社も案内してきましたので、今日は、柳森神社の紹介をします。
下写真は柳森神社の境内で説明を聞く参加者の皆さんです。
柳森神社は『新江戸百景めぐり』(小学館刊)では119ページの第62景で紹介されています。
柳森神社は、秋葉原の駅からは、神田川に架かる「神田ふれい橋」という歩行者と自転車だけが通れる近道を通れば、3分で着きます。
柳森神社は、室町時代、太田道灌が江戸城の鬼門除けとして、多くの柳をこの地に植え、京都の伏見稲荷を勧請したことに由来する神社です。
下写真は本殿前で説明を聞く参加者の皆さん。
〈富士講関係石碑群〉
鳥居を下ると境内は道路より低くなっています。
その石段の脇に「富士講関係石碑群」があります。千代田区教育委員会の説明によると次のようになります。
柳森神社は、延宝8年(1680)に駿河富士宮浅間神社から分祀されたた富士浅間神社を合祀しました。
『東都歳時記』の六月朔日の項の富士参前日の説明の中で、「富士塚』の例として、柳森神社があげられています、
これらのことから、柳森神社は富士講に関わりが深い神社であり、富士塚などが境内に築かれていたようです。
その後、富士塚が明治時代以降何らかの理由で一度廃れてしまい、昭和5年に周辺の富士講によりあらたに富士塚が再建され、現在残っている石碑群は、この時再建された富士塚の周辺に、移設あるいは設置されたと思われます。
しかし戦後には富士講そのものが廃れてしまい、昭和35年に富士塚は破却されました。この時に、残された富士塚の石を境内に積み上げて小山を築き、その小山の中に4枚の富士講石碑を設置しなおされたものが現在の石碑群です。千代田区の民俗文化財に指定されています。
〈御衣黄桜(ぎょいこうざくら)〉
本殿の前の桜の木は、御衣黄桜(ぎょいこうざくら)と呼ばれる緑色の花を咲かせる珍しい桜です。開花につれてわずかではあるが、緑、黄、ピンクへと色を変えていくそうです。
訪ねた昨日は、当然のことながら花は咲いていませんでしたが、以前訪ねて撮影したものが下写真でした。ソメイヨシノとは違う趣があり、大変すばらしかったです。
〈福寿神(おたぬきさん)〉
本殿の手前右手に福寿社があります。下写真が福寿社の御社です。
福寿社は「お狸さん」とよばれ、5代将軍綱吉の生母桂昌院が江戸城内に創建したといわれています。
桂昌院は、京都の八百屋の娘として生まれ、江戸に下向し奥女中として大奥に入り、3代将軍家光の目に留まり、側室となり、5代将軍となる徳川綱吉を産みました。
このように立身出世した桂昌院にあやかり、狸は、「他抜き=他に抜きんでる」という意味をかけ、立身出世や勝負事・金運向上の御利益があるとして信仰されました。
特に、江戸時代には、桂昌院にあやかりたいと願う大奥の女中たちに崇められました。
当初は江戸城内に祀られていましたが、後に鳥越の甚内橋近くにあったという旗本の瓦林家の屋敷内に移され、さらに、明治2年に柳森神社で祀られるようになったようです。下写真は、説明を聞く参加者の皆さん。右端に御社が写っています。
〈柳原の土手〉
現在は、柳原の土手も柳もありませんが、「江戸名所図会」には、「柳原の封彊(どて) 筋違橋より浅草橋へ続く。その間、十町ばかりあり。享保年間、このところの堤にことごとく柳を栽(う)えさせらる。堤の外は神田川なり。」と書いてあります。
柳原の土手は、元和6年(1620)に、幕府の命令により仙台藩が神田川を掘削した際に、その土を利用して江戸の中心部を洪水から守るために築いたと言われています。
和泉橋の南側に千代田区教育委員会の建てた柳原の土手についての説明板があります。下写真が説明板の拡大写真
「『江戸名勝志 』に柳原土手西は筋違橋(元の万世橋)より東は浅草橋迄の間、長さ十丁余(約1.1km)つづけり。柳樹多くありとあり、昔、このあたりは土手で柳の並木がありました。「柳森神社記」によると長禄2年(1458)太田道灌が江戸城の鬼門よけに、柳を植えさせたとあります。又享保(1716~35)のはじめ将軍吉宗が昔の柳が枯れて柳原土手の名だけになっていたので植えさせたのだともいいます。」
その後、寛政6年(1794)幕府は土手沿いの人家を取りはらい火除地とし、この明地にその後老中松平定信は、凶災に備えてお救い米を貯蔵する籾蔵を建てましたが、安政3年(1856)この籾蔵は葛飾郡小菅村に移されたため翌年夏よりこの跡地に又町屋ができました。
江戸時代には、土手には、葭簀張(よしずばり)の古着屋、古道具屋が店を並べていて、古着の一大マーケットだったそうです。
そして、柳原の土手は、明治6年に取り崩されたため、その面影は全くありません。
赤印が柳森神社です。
青印が和泉橋です。
オレンジ印が神田ふれあい橋です。