藤堂家和泉守上屋敷跡(秋葉原散歩①)
秋葉原駅の東口周辺は江戸の史跡が多いのですが、インターネットで検索してもあまり詳しく説明されたものがないようですので、何回かにわけて、秋葉原駅東口周辺の史跡案内をしようと思います。
最初に、藤堂和泉守上屋敷跡についてご案内します。
藤堂家上屋敷は、現在の神田和泉町の西側部分にありました。秋葉原駅東口の目の前に位置します。
〈神田和泉町〉
神田和泉町は、主に津藩藤堂家の上屋敷であった場所に起立した町です。
藤堂家の藩主が代々和泉守を名乗ったことから、名づけられました。江戸時代は武家地であったことから町名をもっていませんでしたが、明治5年に神田和泉町の名前が正式に誕生しました。
ただ、神田和泉町には、藤堂家上屋敷の東側にあった鶴岡藩酒井家中屋敷や旗本の屋敷も含めた部分も含まれていますので、神田和泉町イコール藤堂家上屋敷ではありません。概ね、現在の和泉小学校までが藤堂家の上屋敷だったと思われます。和泉小学校の東側に和泉公園がありますが、ここは、江戸時代は旗本屋敷でした。
津藩藤堂家の上屋敷の面積は、約1万5千坪あり、広大なものでした。
下写真は、千代田区が設置した町名由来板です。

〈藤堂高虎〉
藤堂高虎は、近江国犬上郡藤堂村(現在の滋賀県犬上郡甲良町)に、郷士であった虎高の子として生まれました。15歳のとき、浅井長政に仕え、姉川の戦などで武功をあげました。その後、織田信澄などに仕えた後、豊臣秀吉の弟豊臣(当時は羽柴)秀長に仕え、賤ケ岳の戦、紀伊雑賀攻め、島津攻めなどに軍功があり、加増を重ねられて、紀州粉川で2万石を拝領しました。
天正15年(1587)、佐渡守に叙任しました。(最初は和泉守ではなかったんですね)
豊臣秀長の死後、その子秀保に仕え、文禄の役では秀保の代理として朝鮮に出陣し、水軍の将として武功を挙げました。
秀保の没後、高野山にのぼり剃髪しましたが、豊臣秀吉のたっての願いにより秀吉の直接の家来となり、文禄4年(1595)、伊予国に7万石を拝領し、宇和島城主となりました。慶長の役でも、水軍を率いて朝鮮に渡海し、巨済島の戦いで朝鮮水軍を全滅させ、1万石を加増されました。
豊臣秀吉の死後は家康に接近し、関ケ原の戦では、小早川秀秋を監視し、寝返った秀秋と共に大谷吉継を攻撃しました。その功から関ヶ原の戦いの後、12万石を加増され伊予半国を治めることと伊予今治城を建設しました。
藤堂高虎は城普請の名手として知られ、自分の居城である宇和島城、今治城をはじめとして、近江膳所城、伏見城、丹波篠山城、丹波亀山城などの普請を任せられました。さらに、江戸城の縄張りも担当し、江戸城が落成した際に2万石加増され、和泉守に改めました。
そして、慶長13年(1608)には伊賀1国と伊勢8郡にて移封され、伊勢国津城を拠点としました。この移封の際、伊賀上野城を築きました。下写真は、復元された伊賀上野城に展示されている藤堂高虎の兜です。豊臣秀吉から拝領した「唐冠兜(とうかんなりかぶと)」で三重県の文化財に指定されています。昨年、伊賀上野城を訪ねた際に見てきました。

藤堂高虎は徳川家康から深く信頼され、家康は臨終の床で、「国家の大事のときには、一の先手は高虎、二の先手は井伊直孝」と言い残したといいます。
家康の死後、2代将軍秀忠からも信任され、加増を重ねて、元和3年(1617)に32万3950石となりました。その後秀忠の娘和子(東福門院)の入内にも奔走し、大坂城の縄張りも担当しました。
そして、寛永7年(1630)10月5日、江戸の藤堂藩邸でその生涯を終えました。享年75歳でした。
〈藤堂家の上屋敷〉
藤堂高虎が拝領した屋敷は、現在の神田和泉町の屋敷ではないと思います。
角川日本地名大辞典の神田和泉町の説明によれば、藤堂家は明暦の大火後に神田和泉町に土地を拝領したと書いてあります。
ということは、明暦の大火以前には、神田和泉町に屋敷がないことになりますので、藤堂家の上屋敷が明暦の大火以前どこにあるのか調べました。
いろいろ調べた中で、黒木喬著「江戸の火事」によると、明暦3年(1657)に発生した明暦の大火以後、火災に強い街づくりが計画され、江戸城北の丸にあった4代将軍家綱の弟綱重と綱吉の屋敷を辰の口(現在の大手町)に移し、徳川綱重は加賀藩前田家の上屋敷、徳川綱吉は津藩藤堂家の上屋敷に移ったと書いてあります。
そこで、「寛永江戸庄図」をみると大手門前に「藤堂大学」と書かれた屋敷があります。藤堂高次は、大学頭を名のっていたことがありますので、これは藤堂家の上屋敷で間違いないと思われます。
従って、藤堂家の上屋敷は、明暦の大火以前は辰の口にあり、明暦の大火後に、辰の口から神田和泉町に移転してきたことになります。
〈『江戸名所道外尽(どうけづくし) 外神田佐久間町』安藤広景画〉、
藤堂家の上屋敷がどんな様子であったわかる浮世絵があります。
下の浮世絵は安藤広景が描いた「外神田佐久間町」です。

ここで描かれているのが、藤堂和泉守上屋敷の幕末の正門とそれに続く長屋を描いたものです。
表門は両脇に番所のついた格式の高い門構えとなっています。
また、塀の前には堀があることもわかります。また、門に続く長屋は堅固にできており、二階の窓は武者窓に横木をわたした「曰(いわく)窓」であったことがわかります。
〈森鴎外と東京医学校〉
明治の文豪森鷗外、明治7年12歳の時、東京大学医学部(当時は第一大学区医学校、のちに東京医学校)に入学しました。
森鷗外は、医学生時代にこの長屋に寄宿していたことがあります。
こうした経験を踏まえて、代表作の一つ短編小説『雁』のなかにその頃のこの長屋の様子を書いています。

「まだ大学医学部が下谷にある時の事であった。灰色の瓦を漆喰で塗り込んで、碁盤の目のようにした壁の所々に、腕の太さの木を竪に並べて嵌はめた窓の明いている、藤堂屋敷の門長屋が寄宿舎になっていて、学生はその中で、ちと気の毒な申分だが、野獣のような生活をしていた。勿論今はあんな窓を見ようと思ったって、僅わずかに丸の内の櫓やぐらに残っている位のもので、上野の動物園で獅子や虎を飼って置く檻の格子なんぞは、あれよりははるかにきゃしゃに出来ている。」
これを読むと「曰(いわく)窓」が非常に頑丈にできていたことがよくわかります。
〈種痘所から東京大学医学部へ〉
さて、森鷗外が入学した東京大学医学部(当時は第一大学区医学校、のちに東京医学校)ですが、元々は、安政5年 (1858) に江戸市中の蘭医が設立した神田御玉ケ池の種痘所がはじまりです。
種痘所は、神田相生町からの出火により類焼し、伊東玄朴の家に移転した後、万延元年 (1860) 10月 幕府直轄の種痘所となりました。
この種痘所は、これ以降しばしば名前を変更しています。
まず、種痘所から西洋医学所となり、さらに医学所と改称さて明治維新を迎えました。
明治以降は、さらにめまぐるしく名前をかえて、医学校、大学東校、東京医学校などの名称を経て東大医学部となっています。いちいち名前の変遷を覚える必要はありませんが、主なところだけ書いておきます。
明治元年 (1868) 7月 医学所は、横浜にあった軍事病院を下谷藤堂邸に移し、医学所とあわせて大病院となり、さらに明治2年大病院は、医学校兼病院と改称されたあと、大学東校と改称されました。
さらに、明治5年 8月 学制が布がれ、東校は、第一大学区医学校と改称された。
明治7年5月には 第一大学区医学校は、東京医学校と改称されました。
森鷗外が入学したのは、この時期にあたります。
そして、東京医学校は、明治9年11月本郷に移転し、明治10年 4月東京開成学校と合併し東京大学となり、東京医学校は、東京大学医学部なりました。

