金綱稲荷神社(秋葉原散歩③)
藤堂家上屋敷の東西は、AKKAP本社から和泉小学校辺りまでありました。
現在は、その東側に、和泉公園があります。
その和泉公園の東側に金網(きんつな)稲荷神社がありますが、この金綱稲荷神社に気付く人は少ないのではないでしょうか。

しかし、金綱稲荷神社はかなり歴史のある神社です。
現在の運輸業界の大手である日本通運㈱の元となったのは、江戸の定飛脚問屋でした。
日本通運は明治4年(1871)に、4つの飛脚問屋が結成した陸運元会社からスタートしています。
その有力飛脚問屋の一つに京屋弥兵衛がありました。金綱稲荷神社は、この京屋弥兵衛が最初にお祀りしたものです。
金綱稲荷神社には、日本通運金綱稲荷神社奉賛会が寄進したご由緒を書いた石碑があります。
江戸の有力飛脚の一軒に当る飛脚問屋京屋弥兵衛が、徳川幕府から免許をうけて、大坂・京都・江戸間の運送事業を開始することになった際、お客様から頼まれた大切な手紙や金銭・貨物などを、安全正確に送り届けられことを願いました。その時、京屋弥兵衛は、京都の出身であり、伏見稲荷が、中世の頃盛んであった熊野参詣の道中を守護した道中安全の神様であること思い出して、伏見稲荷をお店に勧請しました。
そして、ある夜、夢枕に王冠白衣のご神霊が立って「汝に黄金の綱を授ける」との詫宣がありました。そこで、早速自分の店で奉祀している神様に「金網(きんつな)」の名前をつけ、前にも増して篤く信仰しました。

それ以来、京屋の飛脚は、道中における災いが皆無となり、商売繁盛となりました。
これにより、京屋は、明治4年(1871)に陸運元会社になるまでの長い間、江戸時代を通じて商売を継続できました。
前述したように京屋は、ほかの飛脚問屋とともに明治5年に陸運元会社となりました。これ日本通運の源となるわけですが、陸運元会社は、さらに内国通運、国際通運となり、そして、日本通運となりました。
京屋弥兵衛が商売をしていたのは、日本橋の室町2丁目でしたので、金綱稲荷神社も元は、京屋の屋敷内にあったものと思います。それが、和泉町に移った時期や理由ははっきりしていないようですが、隣地に日本通運神田支店があったことと関係がありそうです。
金綱稲荷神社の隣には、現在日通本社ビルが建築中で、2021年には竣工するそうです。
奉賛会の石碑(下写真)によると、日本通運では新造船に「金網丸」と命名し、航海の安全を祈ったところ、この金網丸に限り就航以来一度の海難事故はなく、奇跡といわれたこともあるそうです。

また、大正12年9月1日の関東大震災のとき、猛火が殆んど神田一面をなめつくし、今にも和泉町に延焼しようとしたその刹那、霊狐が、突然神田川沿いの屋上に現れ、炎上する火炎に立向い、それを追払う所作をしたといい、その神々しい姿が目に焼き付いているという話が地元に残っているそうです。

